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徹底検証!前号田中怪文書の謎(「三田文学」2008年春季号)

「三田文学」2008年春季号

■田中和生「笙野頼子氏に尋ねる」を読んで
徹底検証!前号田中怪文書の謎 笙野頼子

  序・二田文学編集長加藤宗哉様

 ごぶさたしております。先月の怪文書「ありがとうございました」。「モデル」として大変「面白く」拝見致しました。 そしてあの「笙野」批判。特に「面白」かったのは田中先生の作った

 脳内笙野ですね。まるで強迫観念の産物みたいで

 心から「楽しませていただきました」よ。つまり、……。

 これが今の三田文のレベルだと?あなた、その遠藤周作門下においてっ!はっはっはっはっは。

 まさに怪文書ですよね、ああああ。題名も実に「彼らしい」。古いギャグにしても古過ぎるような。しっかしまた、 ーーー。

 よくここまで汚しましたね一三田文の表紙。

 雑誌に愛があればしない事だよねー。

 さて、ーーー。

 お久しぶりでございます。三田文学読者の皆様方、以前に日本アメリカ文学会全国大会の講演録を載せていただきまし た。笙野頼子です。もっと以前、ここの編集長が伊井直行さんだった頃、ガンの母の看病のさ中、頼まれて「一九九六、段 差のある一日」という短編も書いております。しかし最近はとんとごぶさたしておりました。それでここが一体「どんな ふうになっちゃった」のかを存じあげませんでした。

 お気付きでしょうか前号、「文学閉塞の現状」とやら。なんか三十年前の卒論みたいな題だね。しかも副題が、ねえ 「笙野頼子氏に尋ねる」はは。あの偉い田中某さんから。

 「文学の今」について尋ねられちゃいましたよ私、だけどなんでそんな事を自分で考える事も出来ないんですか。「閉 塞」をどうするか。だってあなた、つまり、あなたったらーーー。

 群像の新選考委員で文學界に連載新潮で連続座談、群像で堂々連作。つまり「立派」に文学の「責任者」だ。

 だったらそーんな「大問題」は自分で考えろよ人のために。ま、だからってここのところ立て続けにぶうぶう出っ放 しの喪前の越駄目評論がなんら意味をなしていない事は十分承知の上だがね、ーーあ、説明忘れてた越駄目評論とは何 か、それは「越えてはならない大事なものを越える資格も持 たぬままに越えたポーズをし、その事で文学を停滞させようと試みる」、「或いは自分にはとても手が出ない高いところに あるものを卑小化して越えようとする」無駄な「評論」の事である。本人が駄目、論調が駄目、越える対象への理解と要 約が駄目、越えようもないこの駄目駄目を私は越駄目評論と呼んでいます。

 というか土台そんなもの評論やないですよね。以前彼「ポストモダンを越えて」、「フェミニズムを越えて」という駄文 を書きました,いつも越えたいのです。そして今度もまた越えようとしています,何をでしょう。彼の脳内ででっちあげ た文学の「脳内閉家」をです。しかしそれはむしろ田中さんの脳の中に雑音多すぎるせいでしょう。それで物が見えず、 文学が閉塞していると誤解したのでしょう。だって大変ですよ。

 脳内フェミだの脳内ポモだの脳内笙野だの、この世にないけど彼の想像の世界で作り上げたわるーい「敵」たち。そん なわるーい「敵」たちにいじめられかわいそうですねえ、田中さん。

 でもそれは君の勝手に招いた心の地獄に過ぎない。だ、か、ら、

 評論を書くときは対象にする本をちゃんと読むんだよ

 そして作者が書いた事を引用して書けばいいそれで君の心の地獄はなくなります。ま、

 それが無理だから越駄目なんすけど。

 それ故に前号にまで読まずに書いた笙野批判が載っているわけだ。で、今度の「越え」は何の「越え」。ああどっかに ある君の「脳内閉塞」を越えて行くわけね、それさえ、自分ひとりで越えられないんだあ、だからおばちゃんの名前を呼 んでいるのだな。

 法政大学の、なんだってその若さで、え、専任かい。

 非常勤でももっとましなのどっさりいるぜ。それが威張っておいて人に依存、やってる事は読まず評論、そして、

 権力者の癖に反権カプリッコ

 あんたがどのくらいお偉いかはこの後の3番の項目で告発してある。一方私は十年本のない持ち込み生活の挙げ句、賞 は少しばかり取ったもののアカデミにも縁はなく選考委員下ろされたり群像追放されたり、でもね、それでも、ーー。

 ラリー・マキャフリーの島国内一盟友としてポストモダン以後の文学を実践と理論で十四、五年もやって来た人間だ。 またそれを日本開催の世界SF大会で説明しようとしたら欠かせない程の日本代表だよ。だから言うけどね。

 私は文学を閉塞させた覚えはないね、実践の近作がその証拠だよ、それを。

 え、読んだのかてめえ、読まなくってこのザマだろ。あっ、読者の皆様こんな荒っぽい字体お嫌ですか

 そうですね。もう少しソフトな方がいいかもしれない。

 ともかく、三田文学の会費を払ってくださる皆様にひとことお断りしておきましょう。また遠藤周作さん、江藤淳さん のような昔の素晴らしい執筆者を偲んでおられる読者の方々にも。おさわがせしておりますとご挨拶を。しかし、ーー。

 これ、決して私のせいではない。まさに編集部の蒔いた種なんですわ。彼、本来絶対別のとこ(それは群像)にのせる べきものをなぜかここが安易にのせている。しかも私は表紙で実名を呼ばれてる。黙ってるわけにはいかないんだ。さ て。

 では先般の怪文書について、まずどうしてこのような嘘が茶番がまかりとおるのか読み解きます。検証していきましょ う。でもその前に、皆様のお手元に前号と前々号をご用意なさいますよう。季刊誌であれば保存も楽。大切に本棚にお持 ちと存じます。でもね、そんな三田文の批判に対する、私の再批判を当事者の群像は載せてくれなかった。それはこの三 田文に「公共性がない」からだそうで。つまりリトルマガジン風情と群像の編集者に切り捨てられたの。そして今は田中 某先生の出世の踏み台扱い、没原稿のゴミ箱代わりに遣い回されているの。そしてすっかり大企業特定編集者の下請けに なっているこの三田文。でも本来は生きた文学史のような雑誌じゃないですか。長い歴史と一流の執筆陣、リトルと言え ども「文士の森」です。大久保房男さんなんか載っているし。

 有名作家か書く連載もある。恩師のエッセイが楽しみ、宝物という方もおられる。でもね、今、ここ、なんかどよーん としてるでしょ。まずその破格に長い田中怪文書。それ、ーー。

 群像で没になった原稿なんですよ、ま没だけならいいんです。価値基準は様々だし、でもここに載せると単なる名誉棄 損だね。

 あなた方は何も知らず、編集部の私物と化した三田文を読まされている。この荒れ果ててブルドーザー入りかけた旧文 士の森。

 では、順を追ってまず掲載形態、一言で言うと、

 1 三田文に対して愛がありません

 論争文とは何か、雑誌のノイズです。編集者がしかけ、歴史に残る茶番となった大論争でさえ、それはでかでかと表紙 に載せるものではない。それが表紙に載っている。なぜか

 売名になるからだ。田中某個人のそして笙野に対しては週刊誌の中吊のような中傷効果があるから  もし内容を読まずとも、慶應大学の看板雑誌が、一作家に対して、ここまでやっているという印象がありますからね。 で、ーー。

 遠藤周作門下が私と総力戦!? 近代文学あげて戦う程の悪の女帝なの笙野頼子って

 ま、それを私はやられているんですわ。そりゃあポモ以後の文学の担い手のひとりです私。でも権力はない。そういう 相手を仮想敵に、実に「かしこい」ですなー。

 「あ、田中やっと反論書いたわけね、えらいじゃん、で、笙野、ああ表紙に名前出されて余程こりゃあ悪い事したねー 悪い女だねこいつ」

 「お、お、長いねーこれ何十枚か、一、ニ、五十枚弱か、すごいねー、よくやったねー」

 「うんうん、これだけ沢山書けるのだからきっと慶應大学はあれだね余程この笙野って女に被害受けたんだろうな」 だって、ーー。

 表紙に名前一挙五十枚(弱)堂々名誉棄損

 けっこうなお手前でございました。え、でもその割りにお湯が温いですわ。そして抹茶茶碗の底かわれてますわ。だっ てこの論争。

 すっかり覚めきってる。何よりも。

 前号の経過報告に無理がありますよ。

 それは追って

 2で、この笙野批判、終わった論争の蒸し返しなのだ。

 それも逃げた挙げ句ですしかも人真似です。

 三月号の群像にその件で私少し書いております。もう引用するのみです。それで十分でしょ。

 昨年十一月号で、久々に論争文を書かせていただきました。田中氏が拙三部作の登場人物の性別を間違えた事に対する批判(引用中断)

 まあこの後もいろいろ書いてあるけれどでもここがポイントです。ーそれは性別です、登場人物の。

 つまりこれ田中氏にとって致命的な間違いなんですわ。というのもね、じゃ今から☆マークが前号田中氏の文おっとそ の前に「尋ねる」がありますな。ああちょうど引用箇所への指摘がその答えと半分かぶります。質問番号は前後しますも のの、それじゃ、まずひとつの問いをここへまとめましょう。

 ☆2、自分の言葉が相手に思ったように伝わらない場合、その責任はつねに相手にあると確信できるのはなぜか

 答え、それは相手によるってことでしょう。そもそも伝わらないからフィクションで登場人物書いたりするんだよ作家 は。というかてめえのそれは問題外だ。またそこまでの「特例に」思い通りに答えが来ると思うなよっつーの。

 ☆しかし百パーセントわたしの読み方が間違っているという確信はいったいどこから来るのだろう。

 答え、それは君が読まずに書いたから。そして笙野作品の登場人物の性別を間違えたからです。ま、ユニセックスな小 説だったらそんな些細な事で怒る方が意地悪かもしれませんし、また、ーーー。

 別の方が別の方法論で書いたもので性別の間違いがあったって実に実に軽いもんですわ。でもね。田中さんの言って る事はこんな事ですよ。笙野頼子の小説において。

 男と女の二項対立が不毛、と書いて批判の対象にした登場人物の性別を間違えたのだ。それだけ。

 ☆「つねに被害者である女性とつねに加害者である男性という構図が固定化され」るという、現在のフェミニズムが陥っているものと同じ悪循環

 ってのが私の作品だそうで。

 で、悪の女帝伊加笛美、権力タコグルメの右大臣左大臣のごずちゃん、めずちゃんは女なんですけどそして哀れ自殺した木綿助君は男、反権力の野々百合子は体が男心は女。百合子を支える歌錦祥瑞は身も心も男。

 すでにがんがん読者ブログで指摘されています。まとめ的サイト含みそれはブログ「笙野頼子ばかりどっと読む」の 2008/1/14の日記、そして「Close to the Wall」2008/1/13の日記。あとはリンクひろっとけば出てきます。 前号にある田中某さんのプログ「郷士主義! 田中和生の生活と意見」にトラックバックが張りつけられています。 もしも彼がはずさなければね。おそらく田中君第一部の第一章だけつまみ読みし、それで名誉少女を全員男と思い込んだ。

 そして別に二次元化じゃないですよ、私のこの要約。単なるるど真ん中のえぐり出し、だって

 ☆たとえば「二次元評論家」という言葉は

 ☆自分の意図に都合よく相手の文章を圧縮し

 たものだそうで、私ここで田中さんを二次元化、不当に単純化したと批判されてます。で、その文(◆が笙野)

 ◆星野のおんたこシリーズは男悪い、女偉いという二項対 立のお馬鹿フェミ図式

 さあどこが二次元化じゃ、田中さんの文をもう一度

 ☆つねに被害者である女性とつねに加害者である男性

 だったら◆男悪い、女偉い、じゃないんですかあ。んでもってその、

 固定化されてるはずの性別が、君の骨子の性別が、ほーら骨盤の性別が、骨が違ってるう。

 表紙に名前、五十枚(弱)、性の固定化非難して、それで性別間違えて。

 二次元化ですらないのかもねこれ、要はーー。

 読まず評論です。単純な話ですわ。本人のレベルの問題。

 だって彼ブログ持ちの癖にこの件ずーっと黙っていたんですよ。おそらくあまりの悔しさに脳内笙野をでっちあげて論 難。それは彼的にいつしか「真実」になったのでしょうけれど。それが虚構の枠を越える事は出来なかった。いくら反論 の遅れる季刊誌でも嘘は本当にはならんよ。じゃここで群像の三月号引用ね。

 ◆精読ブログの読者の一月十四日のまとめ記事で終わって

 そうネットの素人相手に終わっているの。だから後はかるーくやりますよ。ブログに書いてある事を全部引くまでも なくあっさり終われます。ついでにね、ーー。

 あ田中さんのフェミの定義も脳内定義です

 まあそれは6番で。だいたいこの人

 3 反権カブリッコです。その上場の公共性に鈍感ですね。

 物凄い誤読というより未読、読まずぶり。その上で彼、私を前号でアメリカ合衆国のプッシュにたとえています。核保 有純文学ってあるのかしらねえ。まず、序と1に既に現在の先生の栄耀栄華三十代前半にての新選考委員就任という、ご 盛況ぶりを書かせていただきました。一方私は、群像追放の後、首、その後、この田中先生に三部作完結の節目節目に批 判とはとても言えないような低劣な二次元化をされております。にもかかわらず、こうですよ。まったくどの面下げて国 家論を、つか国家に加担するのが国家論てか。あ、そういや私に質問だったわ。

 ☆1、自分の作品を自分の意図とは違う読み方をする評論家を存在できなくすることによって、文学全体はいったいどんな利益を得るのか

 ☆それによって笙野頼子が利益を得るということは理解できる。

 ☆評論家を存在できなくする

 ☆評論家を存在できなくする

 ☆評論家を存在できなくする

 で、田中先生あなたは消されたんですか、あなたはむしろ6番で偉い人の庇護により自分よりすぐれたまたベテランの 評論家をも消す事に貢献してらっしゃる。つか、ーー。

 あたくしあなたいなくなったら困りますことよだって生きた標本で私の大切なモデル! 描写の宝庫様

 すーっと元気でいてね、読者はあなたのブログをヲチして水族館のおんたこを喜んでいます。というか、もし私が消え ろと言ったら消えるんですか。お仲間の方々。だって、ーー

 ニュー評論家は繁盛しています。

 だからこそ私がモデルに事欠かないんだよ。

 結論、文学の閉塞などないあるのはただ三田文学の閉塞状況だけだその上

 ☆私は罵倒や倒喝を受けたいのではなく

 なんちゅうことでしょう。

 4 しかけておいて被害者面です。ケンカに出て来ず遠吠えだけです

 ブログ持ちが三ヵ月黙っていた理由はなんだ。最初はこのおんたこ三部作の一巻目が出た時の中傷批評、次は完成目 前、締切りが延びるような二次元化妨害、ネット読者の真摯な目を俺が裏切れないの判っていて、わざわざ完結間際に2 でいったようなスカタンを繰り返す。

 挙げ句に刊行準備に入ったらまたやってやがんのかっ。頭いいなあ、でも勇気はなあ。

 まあニュー評論は駄目だよう。だって普通、評論家なら恫喝上等、捨て身血まなこで切り込んで来るもんな。おう、ーー。

 人を切るのが侍ならばっ! 言い返しやすむじやないか刀さげてんだろ。三田文にこれだけスペースとって、出来た結果が泣きごとかい福田の竹光よりぺらぺらだあ。

 ☆わたしは笙野頼子を批判したいのではない。

 私の「神」を批判したいそうです。で、その「神」とは。

 ☆おそらくポストモダニズムとフェミニズムなのである。

 このおそらくってついてるのは読んでないからでっか?それは後6番で。

 ともかく本気でやる気なんかまったくないんですよね。田中さんもう完全に飽きられているし。つまり、ーー。

 5 ネットを見れば先生方の正体も判る

 例えばあるネット野武士殿、というか前ページの「Close to the Wall」様。先の記事、この後十行以上も主語になりますので、仮に野武士殿とお呼びしておきましょう。彼の刀で田中さんは三日程でみじん切りされております。だって同趣旨で彼のお仲間仲俣暁生さんかまさに本件について田中擁護笙野批判をやった時、このおさむらいはそれをたちまち叩き 切ってるから。二十六歳の労働者だそうですか刀良いのだよ。一方このブロガー達が手出しを出来ないところに他人の 論点を持ってきて、雑誌汚しているのがこの二次元です。 で、申し訳ないが、野武士殿あなたのサイトより挙げさせていただきます(ブロガーの方々すいません本定価で買っても らった上に引用させて貰ってでも自分で批判しようとしてももうつつくとこない程にあなた方徹底しているので、もし連 絡して良いなら完結編贈呈しますよ)。というわけで、二次元世界の双子ちゃんの笙野批判相似点はここ。ーー。

 A 田中氏独自なレベルの低さを評論家一般の問題にすりかえる

 B それで性別の誤読をスルーする

 C 自分たちニュー評論家は笙野に消されると騒ぐ、同時に「ご活躍」する

 D 星野をアメリカ等の強大なものにたとえ反権力ぶりっこで批評全体の危機ってことにする

 また細かいところでは(これも良刀「i am runaway and proud」様のサイトより)

 E 二人とも蓮實氏の實の字をプログでうち間違える。というかこりゃあいい検索よけですなあ

 さあ、そしてここからは私の意見。似ているの判定かちょっと微妙だが。

 F 読まずに評論を書く、全部または半分読まず、レトリックで読まぬふりもする

 「海難記」というこのプログは前号の田中某の文章に引用があります。ええあれ見れば一発でどんな人か判りますよ。 でも日付が書いてないね。じゃあここは感謝しつつまとめサイトの「どっと読む」さんから。

 二〇〇七年十月ハ日彼仲俣氏は田中擁護に入る。笙野の「近作をほとんど読んでいない」といいながら、そうこの方 私の本の帯に出てくるヴァーチャル・ニュー評論家「四手内径堂」さんによく似ている。つまり読んでないけど口を出し てきたの。ああ、読んでない、読んでない、読んでない径堂。

 でそんな彼の八日追記のところを見ると田中氏の批判は「フェア」だとある。そして次の日九日に『だいにっほん、 おんたこめいわく史』を読みはじめる。じゃあ批判された本の内容知らなくて性別問違えてるのも知らないわけだよな、 この四手内径堂。それと同時に彼絶叫師タコグルメも読みはじめる。金毘羅も読む。そんなにイパーイ読めるのかい? そして、ーー。

 金毘羅を半分読んだところでプログにその感想を書きはじめ現在に至るまで後半は出てこんねー。まあそんな双子のブ ログを引いて彼はこういうわけ

 ☆仲俣暁生が(中略)丁寧に論じているように、小説家が自作を批判されて、それに反論するのは当然の権利である。

 なる程ねえ、読まずに論じられるところだけはお二人とも熱心にやるわけだ。この伸俣氏は『極西文学論』において 「二十一世紀文学」を論じながらネット上で近代文学を殆ど読んでないと発言し一度ブログを炎上させているそうだが。

 あ、質問☆3、どちらかより正しい被害者であるのかを競うのは不毛なことではないか

 競うための小説があると思っているのは脳内被害者の彼らばかり。ダンテや大西巨人がいたら夜も眠れないのは地獄の 亡者だけ。まったく四手内径堂と四手三田慶童どっちがどっちか。でも二人とも笙野にやられてすっごく被害者面してい ますね。読まずに書いてねえ。そこで勝手に被害者競っててください。そうそうフェニズムでした。

 6 ポストモダンの知らず越え(駄目)フェミニズムの知らず越え(駄目)。

 なんか申しわけないけどでも私のファンプログにまた「モモチ」さんという雪の降る地方在住の方が書き込んでくだ さった。というか常識じゃないですか。

 モモチさんはデートDVを例に引き「被害者が女だけではない」事を視野に入れようとするフェミニズムがあると解説 しています。そしてそれが多くのフェミニズムです。

 そう普通のフェミニズムには男悪、女善、なんて図式はないのですわ。それを性別固定と言って批判しているのがまあ 「越えよう」と言う方です。そもそも百家争鳴のフェミニズムを国文フェミに批判されがちの私に代表させて、越えて見 せるというのが田中さんのやり方だからね。

 要するに脳内定義で脳内フェミ批判している人なんてもうこれで十分でしょう。前々号の昭和の文学十進座談会でも、 田中先生は錚々たるメンバーと並び立ち彼ら重鎮に向かってジェンダフリーを説いておられます。ベストテン十人全部 男だと「笙野さんにかみつかれますよ」、って私の名をかたる。それともこれも例の「ブービートラップ」ざんすか。私 の評判下げるためだよね。脳内笙野の人売り出しだあ。

 ねえここまでで三田文読者のみなさん、この人本当に誠実で一心にポモとも戦っているように見えますかたとえば千プラくらいは押さえているんですかねえ

 何回自作の中で書いた事だろう。ポモ使い評論家と私はよく戦ってきた。それかどういうわけか田中氏から無かった事 にされて、西哲批判の笙野の前に現れたニュー評論家は私の「神」がフェミニズムとポストモダニズムだと書いている。 しかし身辺の事から大テーマにつなぐ手付きがラディカルフェミニズムに似てるかもしれんがそんな事は笙野論を書く 蓮實さんでも使う方法だ。というか性別にこだわるフェミ専門のポモマンセー笙野ってこの時点で田中先生の脳内にもう かたまっていますね。それじゃ用語と笙野と両方すべってるよ。さてそして、ポモは越えられるか、ふん越える必要はな い吸収あるいは使ってみりゃいいのだよ。というかラリー・マキャフリーはそれをアヴァン・ボッブと呼んでいる。しか しポモ文学越えるのにポモ哲学の一冊も当たっているのだろうかこの先生は。千のプラトー、私十五年経っても判った気 がしないね、ただ少し使えるようになった。

 千プラをおばちゃんは書評頼まれてゲラで読んだけどその時はイメージが面白いという感覚だけだった。でも十五年い じって、宗教史やったからこの分厚い本の中をたまに少しだけ歩けるようになった。見渡して考えたら頭の隅まで真空に なって足元から大地か飛び散るような怖いい本ですわ。そしてブロガーから笙野は「身体なき器官」と言われた挙句、干 プラの毛穴から子供を生む「症例」の話を結局私は自分の小説の中で使ってしまった。さらに今気になっているのはこの 一行だ。昔は一章のリゾームだけで引かれても頭がちりぢりになったものだ。でもこの前人とまた千プラ話をしていて第 二章のフレーズにふと目がいった。

 引用ーー個人的言表などない

 フロイト批判なのだ。今までさんざん戦ってきた、「私などない」、「内面などない」、「軽やかな知」などという誤用は このあたりから発していたのではとふと思った(それ以前の誤用でもアンチオイディプスとかあるし)。一方、でも、私 が読めばこれは「私小説の私と現実の私は違う」という事なのだそして「この裂け目と段差からいくらでも文学は生まれ る」と読み変えられる。

 そもそも全てを父や性欲に結び付けるフロイト心理学に対抗すること、ヘーゲル的な(というのは私が勝手に言うけ ど、それは下劣な状況論に誤用されがちな国家視点)国家、家族ばっかの世界観に対抗する事、そんな対抗性を持つこの 本自体が緩い構成であり、結論以外は自由な順番で読む本なのである。その読みこそが集団の財産である多様体なのだ。

 それなのに「○○などない」のポモ劣化話法はむしろ読者の視点が欠けたおんたこのもので本来この本に相応しくない のである。この本は出た時には消費され時に現実に対して誤用された。しかし本来ひとりの読者の選ぶ視点とその肉体の 読みを待ち受けて大きく開いている、非情の存在に過ぎないのだ。しかもひとりひとりの読みで内面にもフィクションに も何ピースにも分けて、使うことができる。それをおんたこ視点で大事なものなど何もないようにとって哲学の前で肉体 を消してしまえば文学は消える。しかしその大きい真空を文学という虚構を恐れずさげて歩けば、それはポストモダンの 血肉化となり国家視点に対抗する内面から発した文学を生む。その内面とは。

 ドゥルーズ・ガタリはブッダの自我を泉にたとえ毛沢東の自我大河にたとえている。仏教的自我を私は持っている。 ここを支えに私はこの全部か並立する世界で自分なりの要約を「生きてみたい」のだ。泉というたとえは小さく閉じたと いう意味なのかとも思う。それならば人間の内面は卑小なのか。でもこの本が仏教を仏教と読んで書いているかどうかま ず判らない。一方泉と呼ばれたってその水は地下から湧いてくる。地層という概念は千プラにとっては大変重要だ。だか ら自我が外に向かう回路はこの本には実はあるかもしれない。そんな、不思議の眼鏡を捨てようと私は思わない。但し それを誤用する人間と私は戦ってきた。しかも今自分が使うために読み替えようとしている。この本を捨てるのはおろか な事だ。しかし「賢い」田中はこれらの背景をまったく無視したまま、自分でつくった脳内ポモ文学のいくつかを二次元 化し越駄目化しようとするだけで、新しい哲学も思考も捨てようとしているのだ。

 千プラは第十ー章のリトルネロのところに領土化という概念がありそれが所有の自我かもねと現代思想の座談でヒント 貰い、しかし私がふとそう思うとやはりどこか違う。土地所有と自我を私は結び付けるがそれは実は「再領土化」、領土 化の失敗の結果なのだ。するとそこには唯物史観にとらわれない抽象概念があるのかそれともものがみ信仰でもあるのか と悩む事になる。しかし国家に対抗する千プラ視点を見ているとそちらがむしろ自我について書いたものかと思う。ま、 どっちにしろそこで哲学から離れ具体化が始まる。

 学問を使う事は作家の大事なテーマだ。劣化したものを劣化として批判するならともかく、ポストモダンというひとつ の成果を文学のところでだけ読まずにつまんだ挙げ句に仮想敵にするしか能のない人間にこれは越えられない。文学は大 切だ。同時に他の学問も尊重しなければならぬ。

 で、こいつの貧しい定義を今ここに書いてやる。

 ☆三十年近く前とまったく変わらないポストモダン的な文学観は、もはや時代遅れというより一種の反動であり

 笙野はブッシュで未知は反動か

 君、本当に古臭いと思うのならリトルネロと仏数的所有の関係について「教えて」くれよ俺五十年以上生きてやっと針先だけ見えてきたから。まあこの「教えて」は悪意、な。

 7 人格が疑わしいです。

 ☆「近況という名の、真っ黒なファイル」では、わたしの論旨というより人格に疑問を提示している

 ええ、提示してるんですわ。その通りでもその割りに君、ここは突っ込まないでえらくあっさり書いているねえ。さあ開 いてやろうじゃないか、「近況という名の、真っ黒なファイル」に書きました内容の「文字化け」を訂正してやろうや具 象の方向へ。

 場所は群像の二次会、二年で移動になったK編集長の前である方が評論の誌面刷新を奨励されました。提案者は法政大 学のN教授です。田中某先生の法政大学における目上ですね。このN教授群像ばかりではなく、三田文学とも縁が深く 三田文新入賞授賞式にもよく出席されるそうです。でも私はそういうものがあった日すら知りません。但しここに子細を 出す事に他意はないのです。さて、今の文芸第一出版部部長、私を追放したIさんはこのN教授若き日の大ヒット作の 担当者です。また私をいきなりクビにしたN局長も二十代この十代デビューのN教授を担当していました。そういうご縁 です。この日N教授は「Iさんのご許可を得て発言します」とおっしゃり最近の群像の評論は駄目だとおっしゃられまし た。「おりろ」と思うものもあるとまでも。私は広間の端席の方で、自分が選考を四年務めた時の評論家と喋っておりま した。安藤礼二さん以外は会う機会がないので同窓会みたいになっているのです。しかしその時人勢いた人の中で「おり ろ」といわれたのがどの人かは判らない。あるいは私の書評を最近書いてくれた安藤礼ニさんか、彼は多摩美の准教授、 出て数年ですが、著書もあり、芸術選奨新入賞も受賞しています。文芸年鑑の執筆者でもある。一方、佐藤康智君は、青 木純一君は論文は発表するものの大学には士官しておらず佐藤君などはまだ二十代。生田武志氏伊藤氏貴氏は欠席でし た。安藤さんは民俗学系、佐藤君は中上に夢中、確かに編集者には使いづらいかも。青木純一氏は島本理生や鹿島田真希 について書ける。しかし山崎ナオコーラさんをこの時点で書いていない。この事が評論家としての難点であると、群像の 田中担当者から最近私は指摘を受けました。ちなみにこの担当は蓮實氏を一冊も読んでないそうです。この日は多くの評 論家が出席していました。多和田葉子さん藤野千夜さんたちの選考で出た水牛健太郎氏もその場にいました。この人も読 んで評論する、読める評論家です。

 N教授が三人の評論家を顕彰した時、私はその後何か起こるかなど知りませんでした。「笙野頼子もひとこと!」こと私 の担当者が叫んだので、私は「そうかこの三人は冷遇されかけているのだなあでも田中さんは甘やかされてるようだか」 と思って彼らのいいところを褒めながら自分のいいと思う評論家も褒めました。その時にN教授は人の話が終わらぬうち に二回異を唱えました。

 N教授は年齢は私より下ですが、私より先にデビューしている事もあり、群像の委員も私より先に務められた。また何 よりも私にとってあえて言い返す相手ではない。私のデビュー時には泣きたいような事もありましたし、昔は「N (教授)さんになれ」とI氏に言われてツブれてましたけどなんかまあ今は関係ない人ですよ。あまり会わないし。帰り 際に「私今度家を建てるから遊びに来ない」と教授はおっしやるので、[千葉でしょう、うちも千葉」とお答えし別れ ました。まあ同じ千葉でもうちはしがない建売ですけど。その時は三田文の表紙にこんなことで名前出されるなんて知り ませんでしたし。

 この時N教授のすすめた三人のうちの二人は群像出身、やはり読んで評論する読める評論家です。田中さんが三田文学 新人賞の出身とはその時まで知りませんでした。

 この三田文学という雑誌は余程独自な選考基準があるらしい。まあ独自なら結構です。例えば加藤編集長になってから 十二年、その間に「二、三回だけ」三田文学関係者が、あくまで「二、三回だけ」この新入賞を受賞しています。田中氏 は受賞時編集部員でした。サイトの管理人をされていた時期もあったそうです。今も一週間に一度程手伝っておられるそ うです。

 しかし思えば、本当にこの三部作、完成に近づく節目節目に田中さんは何かと係わって来ますね。でもその割りにおん たこっていわれて定義が判らない、長編「読んで」何も批判出来ないで、内容に触れる能力がなくて言い訳をしている。それ にメタフィクションだから批判し返せないだなんてあなた。

 メタ越えも出来ぬのにポモなんか越えられるわけないよそれが中傷しか出来ない理由ですかぁ。

 そもそも自分のブログをこう受け取らないのは間違っているだの、ごちゃごちゃ言う解釈だって、君本人の読みで人が 読んでくれるとは限らないというお互い様な事態だ、でもそれよりも、何よりも。

 ネットにわざわざ出て行って誤解される口きく事自体が変なんだよ。

 つまり彼には場の公共性が読めない。その上私への「褒め殺し」のあとでは今見ている人がいるのでブログで発言をし ないという発言をしているね。じゃあ褒め殺しの陰口かい。でもここでやってる事は立派に売名だね、君。

 ◆平気なのだこのニュー評論家は

 私が要らんと言ったニュー評論家というのは別に田中氏ひとりではない。但し中でも軽率なこの人は今回。

 おめでとう! N教授おすすめのあの三人の中から群像出身者でなく、なぜか私に嫌がらせしていた君だけがたまたま 新選考委員!

 それで権力握った途端一挙に「反権力」を表現しに来たのだ自分の古巣へ。お世話になったところをゴミの捨て場にす るため!

 ☆笙野頼子の作品に対して意味のある生産的な批判をしつづけることは、ほとんど絶望的に困難である。

 「おりろ」と言われた評論家がすこすこ読んでいるものを、ねえ

 ☆こうして対話を拒絶して、ある種の自閉とともにすべての言葉を自己表現にくり込んでいくというのは、現在にお けるポストモダニズムの典型的な方法で

 素人ブログもすこすこ対話していますけど、ねえ

 千プラ程広くなくとも私の本は読み手に開いてありますけど。

 8 アヴァン・ポップにぱっくれる田中

 なんたってポストモダンの言説相対化、そんな事私ら十五年前からやっておりますわ。それがアヴァン・ポップです。 そこの口まねぱくりをするならまだしも劣化単純化しながら大元を仮想敵化して来るこのやり口、これ、拙作のおんたこ とみたこの関係にそっくりですわ。しかもこの方私の作品は読まないで、嘘の設定を提造した上で叩く。

 実際ここ十五年慶應大学教授巽孝之さんがひろめ私はささやかに実践して来た、このアヴァン・ポップ。ニュー評論 家、仲俣某や田中某はこれをなかった事にというか後退させたいのだ。ひどい事に仲俣某はアヴァン・ポップを「ジャー ゴン」などと言っている。しかし世界SF大会でその実践現象面の一角を捉え「純文学とSFの隣接現象」と新聞は書 き、またこの一語の故に、ハーバード大学の先生が日本まで来て、私ごときと議論してくれる。別にハーバード大学から (今度シドニー大学の先生になったけど)飛行機代払って「ジャーゴン」のお守りに来ているわけではない。

 さて、このアヴァン・ポップとは何か、先程述べたようにポストモダンの教条化がアメリカの文学を脅かした時、ラ リー・マキャフリー氏が提唱した実践を基本とする言葉である。私が知って共振してからもう十五年も経つ。しかし今だ にウィキペディア等を見るとポモ文学の一変種と誤解されている。しかしそれは違う。長澤唯史さんの正調アヴァン・ ポップの解説はこうである。私が要約。

 ーーラリーが考えたのはまずポストモダンとモダンの間に線を引いてしまう事への疑問である。彼は文学部の講義の読 書リストをセルバンテスやラブレーから始める大きい時代区分の出来る人である。ポモが具体性や個人の視点を欠く事の 懸念があり、また文学が市場経済やポップ文化と戦わざるを得ない状況の中これらへの成熟した対抗性を目指していた。 この理論の契機となりまた前進させたのは戦争に彼が向ける眼差し、その社会性である。

 そもそも、アヴァン・ポップとフェミニズムはあらゆる関係があるというだけで、別に越えたりべったり密着したりは しておらん。で、私実践する方のアヴァン・ボッブです。

 ーー笙野はまず共振してそれから勉強した。自分の生活から少しずつネオリベ構造を理解していった。宗教史から近代 を相対化する視点を獲得しつつ、ポップ文化の前に立った自分を客観的に書いたり、ポモを誤用する反アヴァン・ポップ 評論家と闘争したりして、概要を掴んでいった。昔の哲学も小説に使用した。フォイエルバッハ、ドゥルーズ、ブルデューを 気にいった。が、一番契機になったのは皮膚感覚と仏教であった。最近なぜか千プラに開眼し抽象に対する虚構の利点 を自覚し、またこれ以前と以後という自作の分け方をしたくなっている。

 一方田中さんのお仕事はただすべてをスルーする。そしてそれは

 9 ワンコードで書いた状況論です。越えると言って後退しています

 ぷはは、もうアホくさすぎ笑いが止まらん。例えば、

 10 短い書評も状況論? かいフレーズ使い回しこの場合どうよ

 山崎ナオコーラ問題彼女には気の毒です。そして田中氏の一挙五十枚はこのていたらく。それよりね、紙あるんなら、 本当に山崎ナオコーラさんの良さを紹介したいのなら作家論五十枚を書けば良い。

 私がナオコーラさんをどう思っているかは、ニ〇〇七年九月号群像の群像創作合評を読めば判ります。細部面白い人 だよね。で、すばるの書評は国文の女性評論家が楽しんで読んでいます一方田中さんは新潮の書評「カツラ美容室別 室」。まあ田中さんのを先に引用しましょう。

 ☆説明しようとすると途方に暮れる。

 ☆なんだか改行や行空きが多くてスカスカにも見えるし、作品の構成が緻密だというわけでもない。

 ☆書き手としての言葉の選び方はむしろ素朴で、平凡とさえ言ってもいい。

 ☆余計な事を書かない山崎ナオコーラの文章は、楽譜に近い。 そしてこの短い書評で彼彼女のペンネームに触れる「余裕」まである。さらに一か所だけの、作品の固め引用が文の 六分の1をしめ、また見開きスペースで他の作家三名にも触れる。でもこれさえ文學界連載の使いまわしです。一方その 半分のスペースですぱる書評は山崎眞紀子、引用冒頭に◇を入れます。これも「カツラ美容室別室」同じ本ですかあ?

 ◇頬に触れる風の、その日その気分によって微妙に違う肌合いを上手く小説に描く山崎ナオコーラ。

 ◇前作『浮世でランチ』は、ストーリーや構成に魅了された。本作では

 ◇一年間という限定された次空間の中で、繊細な感情を描出するのに成功している。

 ◇なかでも、人との距離のとり方を数字で見事に表現していることに唸った。

 ◇エリとのメール交換にしても、返信にどれくらいの期間をおくか淳之介は頭を悩ます。一回目の返信は翌日の夜に、二回目は五日後に、三回目は一週間と二日後

 ◇恋愛感情に移行するかしないかの薄い膜で作られた境界線の存在を、この数字でスケッチしているのだ。

 ◇コーヒーの入った紙コップの扱い方など、一つ一つの所作の微細な観察が好悪の感情を固める柱となっているし

 (中略)エリのプロフィールが生きている。

 この人は田村俊子が好きでわたしの読者でもある。拾う細部を拾って全体を想像させている。一方田中さんは装飾音符 を飛ばして遠目にちょぼちょぼ楽譜を読み、演奏も出来ない。やれやれすでにもう私はあきております。

 さあでもそれでは私はまだ何を怒っているのでしょう。

 11 群像に愛がないです

 ☆小説と言えば自分の作品か藤枝静男ぐらいしか思いつかないような

 笙野頼子がですよ、まあ自分の事はいい。知ってる人は知っている。「幽界森娘異聞」の私は作者です。また作品中 で言及したのや書評で書いたのは、これもブロガーの方が「下手すると」私より詳しく覚えている。三枝和子も金井美 恵子も。それにしても女の作家に言及すると彼見なくなりますねえ。でもよくも藤枝さんの名前を出したな。

 ふんこれフェミニズムの問題ではないですよねえ。ねえ加藤宗哉さん、藤枝さんが野間賞受けた時に遠藤周作が嘆い たって有名な話で、披を嫌いですかあ? そういうことでしょう?

 藤枝静男はかつて群像の大切にした独自の作家でした。昔芥川賞を私が受けた時大庭みな子さんが授賞式のスピーチに 出てきてくださって「笙野頼子は藤枝静男に認められ」と十三年も苦労した私を労ってくださった。群像は埴谷雄高、 小島信夫、そういう作家のいつく場所だった。

 ☆小説と言えば自分の作品か藤枝静男ぐらいしか思いつかない

 でも、藤枝静男をここでわざわざ出す事の意味は。

 7番と関連してですが、新選考委員にひとりも群像の出身者がいないという点を読売新聞の山内正則記者か私をクビに したN局長にインタビューしています。たまたま、なって欲しい人が「群像に応募」してきてくれなかっただけだ。と局 長は答えています。そうです、たまたまです。そして群像という場はどうなるのでしょうか。続いてきた群像の時間は群 像の特徴は、今後はどこも同じ顔触れに統一され、ーーー。

 群像は評論色も左翼色も強かった。イデオロギーを武器にまたイデオロギーに傷付いた人が書いて来た。異色の私小 説、巨大な観念小説、評論王国、その、ーーー。

 その評論王国の顔がいまや……

 12 このスト破りで成り上がったニュー評論家です群像を潰すつもりですか

 さてでもなぜこの権力者の星野批判は群像で没になったかそれこそおんたこの極みですよ。論争文は雑誌のノイズ、そ れ故没になったらエッセイにさしかえ、あるいは何度も書き直す。私は普通にしてきた事です。そしてもし三田文のため に手を入れたとしてもこれか彼のレベルです。

 というか群像選考委員が自分の批判を却下されて、まだのめのめとその地位にあるか

 もし本当に載せたいのなら、私と同じことをすればいい、選考委員を下り、ここを出ていく、それだけの意地を見せれ ば載りますよ。どんなひどい原稿でもそれは刺し違える覚悟の元になら載せるべき場所に載る。

 群像の長編に群像の選考委員が群像で付けたクレームそれを君はこそこそと

 私は雑誌を追放される約束でまだ発表時批判文に言論統制をかけられ、そこでやむなく誹膀に耐えつつ論壇から遠くか ら、大塚批判をやりました。一方田中さんにはそんな気概はありません。彼は頼まれたらなんでもする。九〇年代文学を 無効にしフェミニズムの努力を踏みにじりポストモダンをマスコミの俗流紹介屋とプロレスして既める。私は哲学の誤用 に怒っているだけだ。ひとつの研究成果自体をなかった事にするのはおかしな事なのだ。しかしそれは雑誌の経済効果を 狙う編集者なら誰でも考える事だ。子供に売ればいい、単純なら買ってくれる。一律にすればいい、というよりそれ以上 に、彼らは多様な存在を許せないのだ。

 せっかく進んだ時代を押し戻す行為。そんな恥ずかしい事は誰も出来ない。ラリーさんは大学を辞し、私は追われた。 「幸徳秋水」が「死刑」だから何だって?今だって権力に殺される人はいる。一方でお前は何してんだ。いつも、人は ストをやる。七〇年代吉本亜流から脳ミソ引き算したような前号の国家論、あれで九〇年代もテロ以後も無効にする気 の、「フレッシュ改革」かい?まともな評論家なら、「そんなひどい事書けません」と言う。でも、もしひとりがーー。

 「はい、やります」と言えばスクラムは破れる。

 それだけではない。田中某は群像のというより文芸誌全体の、場を大切にするという美風を叩き壊した。事を不明瞭に するために汚れを押しつけるために、彼は自分の出身誌を利用している。

 13 追加、藤枝静男の名において、高橋源一郎に「責任」 はない。

 新潮二月号の座談会において、高橋氏は田中氏にこう宣告している。

 引用ーーいま、僕と田中さんの間で文学論争があるとされています。

 また引用ーー僕自身は、相手の弱点を攻撃することへの危惧かあり、相手の屍から有意義ななにかか得られるとも思わ ないので

 屍にするのも無駄と言われ、そこでなにも言えない田中氏には高橋氏もアメリカに見えるのでしょうか。でもなんか談 合しているように見えなくもないですね。私、これだから対談に慎重なんてすわ。というか高橋氏に関しては、ーー。

 この人別に何の「責任」もないですよと私は思ってます。というか私のデビュー時、高橋氏は同じ最終選考に残ってい ました。そして藤枝静男は、木下順二は、川村二郎は、私を選びました。彼は恨んでいいのです。ですのでずっと群像に いても群像に責任がない。私は選ばれたものの損を、引き受けて来たのだ。とはいえ彼、時に他のところでも無責任に見 えますが、それはきっとそこら中に何か私の知らない別の恨みが(それこそ柄谷がベネディクト・アンダーソンを誤読? したことにも)あるのだと思います。

 私がデビューした授賞式の日、高橋氏を一押しし既に担当していた若き日のN編集部員は今N局長です。高橋さんはそ の後本も次々と出た。私は十年本無し。作家論が先に出た。 私がドイツイデオロギー的、交通起源的な小説定義によっ て批判され群像から没をくらっている間、彼はもうワープロのコマーシャルに出ていました。今では野間新人賞の委員を くびになる私を尻目に立派に野間賞の選考委員です。彼、私の近作の理解者ではあるものの、また千プラならまだ彼の方 が読めるとは思いますが、なんでもかんでも一緒くたという最近の態度は、特に8を実践して来た私には、疑問が残りま す。断片の集積がもしも統合をこばんでいるとしたら、断片はそれこそ「地平にまでわたる虹を描」(引用千プラ解説宇 野邦一)かなくてはならず、同時にひとりの読者のひとつの魂の容器、環境となるべきなのだ。8に書いた通りです。一 方、別のやり方にしても、無論、具体物を主語にして書く以上それはもう哲学ではない。「全部あり」で済ませる事は無 理なんじゃないですか。ああ、ついでに、ーー。

 東さんを放置する事の理由は8の中に包括されています。

 14 追加、閉塞厨はネットを砥めています。

 しかしネット、パソコンはどんどん普及しています。活字がネットより無責任でいいのでしょうか。そこを私は憂いま す。だからと言ってその解決法を人に「尋ねたり」しません。私はネットに語りかける小説を書くけれど直接彼らの前 に[カキコ」して驚かす事を避けています。そうしながらネット語を使ってみる事も私に出来るささやかな事です。そ の上でネット専門家に何か尋ねるのなら礼儀正しく尋ねますね。あ、質問残ってた。

 ☆4、現在の「国家的なもの」が「悪」であり「不自由」を生み出しているとして、その現実を変えるためにはだれにどんな言葉を届ければよいのか

 よくも私に聞きましたね答えてあげるから君、もう恥を知りなさい。それとも勝手につぶやいてるだけですか。じゃあ 一生後ろ向いてろ。今、国家が「見えなく」なっているというネオリベの基本も知らんようだが。この「七〇年代」め!

 マルクス主義の失敗は所有と宗教の問題だ。私が作家の体と言葉でフォイエルバッハを使ってみせているのはひとつの 挑戦だ。未来を描くための精神の不在それがどんなに世相を荒廃させているか。主体なき言語おんたこの解明もひとつの 挑戦、出来ることはひとりからでも始めるのだ。

 三部作は文学の外、現代思想や論座がまた一九二五年から続く京都大学新聞までが三面特集し、ネットの読者もブログ を書いている。

 キリスト教を問いなおす事は遠藤周作氏の後期作品において大事な問題、でも彼はそれもスルーでワンコード「フェミニズム」だ。

 15 群像よ群像よ、どうか無事で、

 いつだって潰そうと思えば群像は潰せた。それは会社がどうでもその部署のトップが世間を砥め、公共性から目を背け れば簡単に出来る。現場は戦っても上が潰せば出来る。

 没続きの十年も群像という雑誌は京都の、またその後東京に転居した家にも届いていました。雑誌が届くと私はそれを 持って喫茶店に行った。表紙を人前にさらし、当時はまあちんぷんかんぷんなものばっかだったですけどね。

 文芸局は今の体制をかえたくないようだ。改岑と称する幼稚化と歴史の切断、まさにブルドーザー。新しい「森」を作 る場所さえ私にあればいい、どこでも根を生やし大木になってやる。でも私ごときにまで捨てられたら群像の文学も気の 毒すぎるよと思う。特定編集者の意図で崩れていく群像、それは実は第二次純文学論争の頃からあった事だ。この四半世 紀にも。

 私のまとまった作品はいくら私が希望しても当分群像に載る事はない。しかし私は心から「群像のためにがんばります ねえ」。じゃあ最後にまたひとこと。

 評論家は必要でもニュー評論家はいらん。評論は誰がやってもええが批評の出来る人で意図的な二次元化はせん人がええ。

 ネットのみなさま、三田文のみなさま、今後共文学をどうかよろしくお願いいたします。(終)