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三部作と三特集ー近況という名の爆裂するファイル

update:2008/04/24

「新潮」2008年05月号掲載

笙野頼子

 ここ三年程、二部作をやっていた。その「受難」と栄光についてここに述べる。まず二〇〇六年一月号の群像掲載の第一部「だいにっほん、おんたこめいわく史」、売り上げ文学論の評論家をかばう編集の手で、言論統制を加えられ雑誌から締め出された挙げ句やっとこのデビュー誌に舞い戻って始めた長編である。しかし舞い戻ると同時に、その直後に、いきなり同じ版元の文芸局長と重役から、野間新入賞選考委員を二十分でクビにされている。そこで手作りの抗議記者会見をして「会社側」横暴を世に訴え謝罪を得たものの、自宅台所の流しにはぽうふらをわかす、というようなどたばたの後、三日で百五十枚のペースで第一部を書き上げた。これが次月の群像の創作合評においげ、「読者をなめている」、「文壇の異物気取り」と批判された。しかし、ネットをあけると人々は喜んでいた。文はラノベ形式に見えなくもなく、ネット俗語が氾濫、メタでありアヴァンポップであり語り手は転々、近代文学を読む訓練だけを受けた人々には大変「読みにくい」。「顰蹙対談」を掲げた群像の合評にて堂々の余計者という嫌われっぷりである。でも私は群像の新生のために若い人々のためにこれを書きたい。さて合評に反論1を加えた上で、同年八月号の「だいにっほん、ろんちくおげれつ記」を発表。この二冊どちらも既に講談社から刊行されている。そして昨年の群像十二月号「だいにっほん、ろりりべしんでけ録」で完成したわけだが、この掲載予定群像の前月にまたしても掲載不毛という趣旨の大批判が出た。そこで結局私は反論予告2と反論文3を出し、ネット読者の見守る中、カキコから新聞にまで「笙野まつり」と呼ばれた完結編を出した。さらにまた番外編「だいにっほん、いかふぇみうんざり考」という長編を予定していた。が、当分掲載できない。ーーースペースがないというのなら交渉しようもあるがとりつくしまがない。「ずっと待っている」などと告げると電話の向こうで担当は沈黙し、後は真っ暗闇。しかし不流行超マイナー少数派小説ではあるものの、これが結構話題作なのだ。

 思想、論壇系二誌でなら(ひとつは三千枚になってもいいというプロポーズ、もうひとつはこちらが話したら少し乗ってきてくれたもの)一応掲載の望みはあるものの、何より冷えつづける群像を、このまま立ち去ると私のわがままであるかのような誤解もまねくし、いくら少数でもこれがために群像を定期購読している人もいる。というとこの三作何か不幸続きであるようだが、一方、ラッキーもある。

 終了後立て続けに、他社からわざわざ完結を祝った特集も出ている。ひとつはたまたま私の誕生日発売の京大新聞、二万字三面というインタビューを載せてくれた。掲載紙には爆笑問題のインタビューだの生協の本に関する若島正のコメントだのが載っている。大学の構内にはまだ表現の自由があるという事なのか、いくつものピッグネームに関して私は制限なくおもうところを述べたこの新聞は京都大学の中に編集部があり、一九二五年から続いている。 一方、似たような名前で、京大○○新聞という、原理研系の新聞も世間にある。ゆめゆめ間違えてくれるなということである。京大新聞はその構内で販売するだけではなく、公式サイトもあるのでバックナンパー等、一般にも手に入る。さらにもうひとつ、これは今進行中「論座」の六月号予定の特集である。このためのロングインタビューを既に受けた。他に八本の短い論考と私のエッセイ、書き下ろし短編三十枚で構成される。外部になら愛される三部作なのだ。決してエンタメ性に富むとは言いがたいが。


 そもそも昨年の二月、既に「現代思想」三月号で「ネオリベラリズムを越える想像力」と題して完結を期した特集が出ている。昨年秋に文藝でも笙野特集もあったがこれはややソフトで、でも三部作もしっかり取り上げられている。


 従来の作と違い、この作品を偏愛する人には特徴がある。ひとり運動家やネットでも論壇に関心のある人々、一部哲学好きの読者も引き込んだようだ。が、全体は哲学の誤用や無知な評論家をからかうトーンに貫かれていて、一見哲学批判にも見える内容である。また例えばへーゲル、カント、デリダ、ラカンだけの読者だとこの作品の中に難儀な「他者性」だけしか見てくれないようだ。八〇年代にドゥルーズを記号的に消費してしまっただけで忘れてしまった人々にも愛して貰えない。しかし交通起源説やデリダの現前性に疑問を持つ(と言っている)、ずっと千のプラトーを読んでいたような人は喜ぶらしい。ドイツイデオロギーの中にある思想の誤伝播性、最終的に私はそこに辿り着くことになった。内容より伝わり方という世間側から見た思想話にもなっている。そして今思えば、リゾーム的世界を虚構の一定点から実況するように私は書いた。完結後千のプラトーを再読して、それがどく一部だけ、「判る」ようになっていることに私は驚いた。でも三部作の受難はまだまだ続くのだ。


 一月、季刊誌三田文学の表紙に私の名前が出ていた。名ざしのこの批判は、ここまでの全ての「受難」に関与し続けた、そして「会社側」の重用するさるニュー評論家。つまり現群像新人文学賞選考委員先々月新潮座談会出席者田中和某氏のもの。数えれば五十枚弱あるという御論考で、世に論争文というものをここまで特別扱いしているケースは少ないと思う。そして言った覚えのないことを言ったとされ、あり得ない人格につくりこまれたこっちは国賊呼ばわり、でも彼要するに「読まず」に書いたのだ。それがまるで旧文学と私の総力戦に見える。故に私は、論争予告4を出し反論5を携え、出向いて行く。同時に、文中番号順に資料の掲載場所、刊行物に纏めたものは一括告知として含め、ここに載せる。

完結編は四月三十日に講談社刊行。ーーー文中資料1絶叫師タコグルメと百人の普通の男後書き、2文藝二〇〇七冬号近況エッセイ、3および4完結編に後書きと共に掲載、5は三田文学春号掲載「徹底検証!前号田中怪文書の謎」。