【特別収録】 慶応義塾大学文学部設置総合教育教育科目 「愛とセクシュアリティ」(2008年6月3日)
笙野頼子
雨の中をみなさんどうもありがとう。今日は千葉の佐倉からなんですけれども、わざわざどうして、慶早戦でやめになるかもしれないのに、家から2時間くらいかかるこの午前中の教室に来てしまったかと言うと、それは私がこの大学の方達をとても好きで、慶麿大学の学生さんや関係者の方に対して友愛を示したいといつも思っているというのに、それをはばまれ、誤解されるような「事件」が起きてしまったからなんですね。つまり無理してでもここに来なくてはしょうがないような、やむをえない事情に追い込まれたのです。でもそれは最後に申し上げて、今はこの講座の主要なテーマ愛についてお話したいと思います。まあでも今日は弱い分野ですね(笑)私にとって。
愛とセクシュアリティと言ったときに、私ごときに何か言えるだろうとやや、ひるんでいます。自分は普段心の世界で生きていて、いわゆる異性というものはもちろん、同性との接触も全くしてない。じゃあ木石のような冷たい人開かというとそうではなくて、音楽を聞いたり、風に吹かれたりするだけでも、何か愛情に似た感情がわき上がってくる性格なのです。ひとりでいても、満たされているらしいのです。例えばいわゆるオタクの人たちが、「萌え」というのを、私はごく最初の頃、自分の生活から類推して萌え出ずるような感情のことだと誤解していた程に、心ときめく人間です。そしてメイド喫茶とかそういうもののことだとはそれについて勉強するまでは知りませんでした。しかし彼らと何か共通のところがあるんじゃないかと人から言われたりもします。恋愛の対象が必ずしも実物や現実でなく、結婚につながらず、なおかつ、その恋愛に外側とか、構造とかそういうものが、ないとしたらどうだろうなどと考えてしまうからかもしれません。生きていながら愛の中にいるような感覚があって、かつそれは子どもの頃に身につけたものであって、どんなつらいことがあっても、ストレスがあっても愛を持っている。
私は実は普通の人より異常にストレスに強いと言われています。それから、あまりにも集中力がありすぎるので小説を書き始めるとそのことばっかりしているし、論争を始めるとそのことばっかりしています。ただ、我に返ると、愛に気づかされるときがあります。冬の公園で痛撃していた猫を拾ってきたことがあります。これが今15歳で、病気で背中がくぼんできて、15歳でこういう病気の猫がこんなに元気で生きているのは珍しいと言われていて、今のところよく食べたり遊んだりしていますが、少しずつ腰が立たなくなってくるかもしれない。大分死んでしまったのですが、以前には雑司ケ谷のゴミ捨て場にいて、不動産屋の人がその猫たちを保健所にやるというので、それから周りに毒を撒いたり、足を切ったり熱湯をかけたりする人たちもいて、定期的に毒が撒かれていたのでどうしても心配で、野良猫の世話をするという感じだけではなく、友達のような感じになってしまった。それで仕方なく、彼らを連れ、そのために家を買って、千葉へ越しました。その猫たちは私にとって特別のものです。一般の猫にも好きだとかかわいいだとかいう感情はわくようになってます。だけど彼らは、友達のようで、身内のようでもある。その猫のために家を買うというのは縁があったからです。最初に一匹の子猫をうまく捕まえて、助け上げたときに、心の中にわき上がって来た感情というのは、愛情です。でもそれは、社会にはあまり認められない、思い上がった、ナルシストの身勝手な愛だと言われる愛かもしれない。でも何を言われても平気です。自分自身を拾って助けた。自分が助けられたような気がしました。
まあ今の世の中でこういうクサいことを言うとポロクソに言われるわけで、例えばもしひとことでも真実とか言うと文脈にかかわらず冷笑するようなことを言う人がいます。でも、絶対的真実なんてのはないにしても、ひとりひとりの心の中に内的真実があります。あるいは、この52歳の不細工なおばちゃんが、何か暗い事を口にしていてもそれはおばちゃんの真実です。ただ、外からは見苦しくて、怖いわけですよ。もう不気味でしょうがないという人もいるでしょう。私の心のうちに湧いてくる自然な感情や、心からの歌は誰も止められないにしてもね。
『千のプラトー』という本があります。ドゥルーズ/ガタリの本ですけれどもその中にリトルネロという言葉がでてきます。ちょっと歌をくちずさむときの時間こそが資本主義や国家と戦い得る最も素晴らしい時間だと、そういう意味にも読める。難しい本だから、私があんまり勝手なこと言ってはいけないけれども、そういう何か、根本的な構造を破って現れてくるものですね。ヘーゲルとかカントが、上から国家はこうだ、歴史はこうだ、家族はこうだ、一本の線で、一つの構造で、国はこうじゃなきゃいけない、などというのと対抗する力。この「わきあがるもの」を一言で説明するのはとても難しいですけれども、それは近代とか、国家とか、伝統とか、そういう大きなものの前では、押しつぶされがちなものです。その、おしつぶされがちなものの可能性を私は見ている。私は最近祈りという言葉をよく使いますがそれは、堕落した葬式宗教のことを言ってい るのではありません。宗教のフレームにこだわらないです。あるいは鈴木大拙のようなことを言っているのでもありません。ただどこか、心の奥から湧いてくる、祈りのようなものです。愛の感情というより、生命の感情だと思います。フェリックス・ガタリが、ラカンと決別したときに、ラカンの構造のことについて批判しました。構造は何も生まない、形骸しか生まない。しかし機械は生産するという言い方をしました。機械というのは哲学の用語らしいので冷たく聞こえますが、でも生み出す存在なのですから私は、構造を抜けて現れてくる本質というふうに受け止めています。形骸ではないもの、流れ、リズム、厚み、色彩、運動そういうもの全部が人の生を形作っていて、その生の中に愛があふれている。同時に、憎悪もあるかもしれない。近代は国家が人の内面を抑圧した時代だけど、どんな小さい個人でもものすごい内面から国家に対抗するパワーを生み出せるのだといいたい。
女性であれ男性であれ、社会の中でいろいろな制限を受けている。上から、お前たちは意味がないと言われ、また、平等と言われるかわりに、「等しく」少しも大事じゃない取り替え可能なんだ、内面なんかないと、言われてしまうこともあるわけですよ。経済の市場の都合とか、あるいは国に都合のいい規則とかで大切な個人も抑圧されてしまう。それは共同体の中で、仲良く話し合って決めた規則じゃなくて、上から一方的に押さえつけられる様にした、コードが存在するわけで、
そのコードの中で、恋愛でもなんでもまず形からはいって、型にはめなければ始まらないという場合がある。国家のコードからはみでた言葉を使った文学が少数に通じている時も狂人扱いされる。つまりそんな世の中で個人の中からわき上がってきたものが、あまりに本質的で、あったとき、多くの人から黙殺されたり、目を背けられたりするのだと思います。
私は小学校の6年生くらいまで、自分は大きくなったら男の人になるんだと思っていました。女性として生まれたということは分かっていたんですけれども、なぜか男になると思っていた。田舎では、理性的な理科系の家庭では女性であるということは、あまり有利ではなかったです。すべての悪いものは女性の特徴とされて、なおかつ、感情的であったり、生命力があったり、あるいは肉体が先んじたりしていれば人から気に入られず冷笑されたり、叱られたり、皮肉られたり笑われたりする。大声で泣いたりするともし家族であってもみんなが目を背けて「あなたに使う神経はないから向うへ行ってくれ、あなたを見ていると疲れる」と言われると思います。そういうときに私はどうしたかというと、私は1人でいることを選びました。1人でいて、どうして 孤独じゃなかったか。フォイエルバッハという哲学者がいるんですけれども、このフォイエルバッハは、人は1人であっても孤独ではないと言っています。それはどうしてかというと、言葉を使うからです。言葉が社会的なものであって、その言葉を使うことによって孤独でなくなるということです。人間とは言葉によって社会化されると、ここがマルクスと違うところです。
言葉から愛が湧き上がると私は思います。例えばまず、その1人でいるときの言葉はだれに向うのでしょう。ただここから先は本当に小説なんです。だからちょっとこの『萌神分魂譜』というものを読んでみます。『萌神分魂譜』には、萌神という人と、姫という人がでてきます。姫というと高貴な女性のようですけれども、50を過ぎていて、不細工で、千葉の郊外で猫を飼っている、とても外見の悪いおばちゃんです。不当に排除され、ずっと戦い続けたりして、今戦いの対象がどんどん大きくなってきている、そういう人です。芥川賞は30万部売れなきゃいけないと言っていた新聞記者を批判していたり、文芸誌の赤字計算をしながらそこに居座ってしまった、児童ポルノ、未成年のヌードグラビアを作っていた人と戦ったり、そういう人が「文芸誌は自立してない」、 要するに赤字だから駄口だ、売れない文化なんかいらないと、言う時はでそんな連中に対抗し続けてきました。そうして最終的には、どうして市場経済と文化が対立するときに、文化を一枚岩にすることを考えるやつが出てくるんだろうと考えるようになりました。要するに、文化を一枚岩にしたい人だちというのは、統一したい人たちというのはお金のことを□にするけれども、それはお金が一番分かり易い基準に過ぎないからです。本当は彼らは、何も無い世界が好きなんです。内面が何もなくて、上から見て、人間に差がない、そしてわかりやすい構造を持っているのが好き。どんなことでも、外から理由を決めたりしたいだけです。一番わかりやすいのは自分の都合だけでするような、できのわるい精神分析です。1996年にソーカル事件というのがあったのをご存知だと思いますけれども、アラン・ソーカルという人が、クリステヴァのパロディのような論文 を書いて、数学的なでたらめをいっぱい書いてフランスのどこか権威のあるところに投稿したら、それが通って掲載されてしまったと言う事件がありました。それ以後、知の欺瞞という本が出て、ラカンやクリステヴァが、どんなに間違った数学の使い方をしているかということが問題になったのです。その中でドゥルーズも微分の使い方が問題にされたようです。
実は私は正直なところ、日本でラカン、クリステヴァを使う人が抑圧的で、数学が絶対真理のようにこちらにものを言ってくることが多いんで、彼らに対してはふんとしか思っていません。しかし、ドゥルーズの『ドゥルース/ガタリの現在』(平凡社)によると、微分を例えとして使っただけだそうだし、『千のプラトー』や『記号と事件』の中には私の中で響きあうものがあるから今後も使おうと思っています。数学だって一枚岩のかくれみのにされているだけだと思うこともあるし。
そもそも、そんな風にして何でも一枚岩にしておきたい人たちというのは自分がないんだと思います。自分の内面世界から外を見るとすごく見えにくいし、限られてるし、せまくてドロドロしてるようですけれど、その中に生命があって、そこからしか見えない外界がある。もし外から見てその人がどんな人であっても、その内面に気づくことができたら、そしてその内面世界との関係に気づくことができたら、そしたらその人の人生が少々不幸でも、満たされなくても、精神的な幸福というか、そのために生まれて来たんだという気持ちがわいてくるでしょう。まあそれはそういうふうに私自身が感じるので言うのですけれども、私は1人でいて1人じゃない。言葉を使っていて文字を書いてそれを共有することもできる。それから、自分自身を支えてくれる他者のような存在をずっと持っています。四国のお遍路さんは弘法大師といっしょに、ふたりでまわってるんだという意識があるそうです。私の感覚もそのようなものです。
で、そんな「愛」について最近長編を書きました。この『萌神分魂譜』という本ですけれども、もちろん小説はフィクションですからフィクションのように書いてあります。まとまりやすくかいたというよりも、デフォルメして色をはっきりさせて、目に見える様に書いてあります。私が生まれたとき、私の背中には黒い翼があって、そして背中に目があった。そういう空想をこの主人公は持っています。そして孤独で、人間の心を持っていなかった。だけど、その暗く、孤独なものを愛してくれる存在がいた。その正体は、主人公の家の近くの古市遊郭というところの跡地なんですけれども、その四つ辻で、85年間維新の前からずっと人に踏まれ続けて来た・枚のお札の権化みたいなものだった。そのお札がいつしか萌神になって、そして、姫を愛するようになる。姫のことを萌神は常に考えて、いつもいっしょにいて、心を一つにして、もし姫が音楽とか、美しい景色とか、あるいは異性じゃなくとも、きれいな写真を見て、それに恋愛に近いような、萌えいずる感情を持った時にはそこに宿っていて愛を受け止める。純愛のような、対象のない恋のような、そして相手に対してどうこうするという以前に自分自身の生きるよすがになるようなものに姫が会ったときには、必ずその中に萌神がいて、そして彼女を助けていると。そういう萌神が、どういうふうに彼女を愛しているかということを、どうやって出会ったのかを語るところから、この小説は始まっています。ちょっと読みます。
(テキストp005,1〜4行目)
これはどういうことかというと、札に向って人が祈るときにそのお札は釘を打たれて壁に貼付けられているかもしれないから。それから、「土嚢の下に埋められ、ゲジゲジの足とともに腐りながら、」というのは愛する動物が死んで姫がその体を土に埋めるしかなかったときに、そのときに彼はまだその中に宿っていたという事です。愛するものの全ての中に萌神が宿ってそれからその死が忘れられたときにまた別のものに宿るんです。ですから、動物の死体に乗せられて焼かれても、灰の中から蘇ってしまうほどに愛していると彼は姫に言います。
俺は、俺本来の身体…(p005,5行目〜p006,7行目)
萌神というのは、ミもフタもなくいってしまえば、自己愛がこちらに向って反射して来たものです。多くの人間は、自分自身を、この世で一番大切だと思うので、その反映であるすがたというのは、本来美しく見えるはずです。なおかつ、フォイエルバッハが言ったように、人間の感情の本質が神様になるならこれは神の原型です。そして人間が神を拝むときに、原始キリスト教などであれば、恋人を拝むように、あるいは自分の感情の頂点を拝むように、自分の中の一番美しいものを拝みます。恋の原型でもあるのですね。また翼を装着されるということは、日本の神様でも、西洋の天使でも救い守ってくれるものの姿をとらされるという事です。世界中に羽根の生えた神様も、蛇の神様もいます。日本では、権現系の仏教と習合した神様の多くは天狗の形をしていて、翼をはやしています。神や天使ですね。だから萌神は恋愛の対象でもあるし、萌え出ずる心の対象でもあるし、信仰の対象でもあるし、西洋なら天使に通じるし、全部を表現して、彼女本人とずっといつもいっしょにいる、ということです。 そして、愛していると言いながら、萌神は来歴を語ります。
最初、まず19世紀のころ…(p006,8行目〜)
多くの個人は国家から見れば平凡な存在なんですよね。ただ平凡だけど、ひとりひとり大切な心身を持っている。だけど、そんな大切な内面を思い込みだけでなくわかろうとしても無駄で、例えば言葉等の社会性をもたなければならない。社会性というのはただ単に人と酒のんだりする、そういうことではなくて、言葉を使って、あるいは言葉を使わなくても他者に対する想像力を働かせて、他者を、今だったらあわれみという言葉は悪い言葉のようなので、慈しむと言った方がいいでしょう。慈しむというのも上から見た感じで偉そうだと思う人がいるかもしれない。でも、慈しむということを相手を傷つけずにできるのだとすれば、良いと思います。慈しんだり、また対等に想像したり、憧れたりすればいい。人間は、平凡であってもいいんです。自分の内側から見たときには自分は特別で、大事な自分です。外から見てどうであっても、その特別で大事な自分は捨ててはいけない。なおかつ他の人たちもみんな大事で特別で多くの人がいたらそれだけの数の真実があると思うしかない。その中からコードの外の言葉を使って通じ合うものが出てくるかもしれない。ある程度調和してやっていかなければならないことは確かです。だけど、そのときにその千人の中の1人が、人間には内面なんかないとか、上から見て、たとえばラカンを誤用してどうのこうのと、「これが絶対真理だ」とか、「数学的に正しい」「宇宙的に正しい」となんか言ってきたら、それはおかしいと思わなきゃいけない。でも、おかしいと思う以前に、自分の身体の中にある、自分の大切さというのを、生命力にして出していかなければならない。それを私は魂結びという言葉で呼んでます。
俺は一体どのような姫につかえるのか…(p007,2行目〜)
萌神の正体は実は一枚のお札なんです。明治ちょっと前の、山を歩いてお札を売る男がいた。そのよくあるお札の一枚なんです。で、この一枚がだれに買われるかというと基本的には古市遊郭や、遊郭で買われている女性に買われたという設定になっています。どうしてかというと、私は遊郭の跡地で育ったんで。ここから語るしかなかったのです。だけど遊郭のことを書くのは、すごく怖かった、だってその土地で育ってしまったから。と言ってもうちはいわゆる遊郭の経営者でもないし、関係者でもない。昔の遊郭というのはすごく高級な土地に建ってたんです。水はけがよくて、日当たりが良いところ。だけどその割に、土地が安いんです。そこヘサラリーマンの人が来て、家を建てて住む。父はその高い土地、値打ちはあるんだけれど比較的値段の安い遊郭のあとの土地をおじさんからもらって、そこに住みました。つまり、そこには語りにくい歴史がある。今はただ無かった事にされがちなだけでルーツはある。要するに社会科の勉強で、小学生とか中学生が当時の話を取材するわけです。取材すると言っても昔遊郭のうどん屋さんだった人に聞いたりするわけですよね。それから、やはり遊郭の経営者側の人にも聞くと、なかなか考えなきゃいけないことがいっぱいあって、50過ぎるまで、この件に関しては、書くことも、声に出すこともうまくいかないような感じがありました。書いてる最中に、自分は幽霊みたいなものは信じてなくても、この人たちに悪いことしてるんじゃないかとか、思わないではいられない。だけれども、性愛を商品にされる所で、もし愛されても相手は客である、そういう状態で、明日がわからない、病気するかもしれない、死ぬかもしれない、そういうような女性に買われるお札が一枚、地面に落ちて、そのままずっと四つ辻で人に踏まれてきたと心に浮かんできてしまった。自己愛の反映ということで、どんな辛い目にあっても愛してくれる他者のことを書きたくて書きました。自分の心の中の唯一絶対の他者が自分を守ってくれるという根拠を歴史の中に求めたかったのです。でも宗教じゃなくて、自分1人だけの、いっしょにいてくれる人なんだと、そういうことを書こうとしたのでそんなふうになりました。
この姫が、祖母の家で生まれるわけです。祖母の家で生まれて、百日たって実家に帰ってくる。帰ってきたときに、祖母と別れて、姫はさびしいわけですよね。そしてそのときに、その寂しさがお札を呼んでしまうわけですよ。呼んでしまったときに、彼は姫に気づくのです。どういう風にして気づいたか、家の裏に藪があって、藪の中に彼はいきなり吸い込まれたと。お札だったから、四つ辻から藪へ勤くのは、姫の気持ちが動かないと動けないんです。つまり姫に呼ばれるとはこういうことなのです。この文自体呪文のような感じですけれども、内面の強い自己から発した、呪文としてでもいいです読んで下さい。言葉自体に力かあると思って。
愛している。あの日ずっと小さい石の上で…(p030、5行目〜)
赤ちゃんが灯を見ていたんですね。
散文的に…(p030,8行目〜)
初めての孤独に対して応えてくる唯一絶対の自己というものは、たぶん心理学なんかから言えば、嘘だと思います。でも、そこが小説のよいところだと思います。こうやって心の根源を一人一人の人に想像してもらえればいいと思ったんです。
君の背後にある…(p030,15行目〜)
これは、四日市という港町の、江戸時代くらいの風景を想像して書きました。
水平線の向うに・‥(p031,3行目〜)
これはこの主人公がそういう原風景を持っているんです。自分は海の底から来たと、人間じゃない魂を持っていると、人間の心が無いと。
君は海の底にいた魂…(p031,5行目〜)
姫は肉体と魂が乖離したような、辛い状態で生まれているんですけれども、それを唯一絶対の他者はこうやって励ますわけです。この言葉は私の身体からわいてきた言葉ですけれども、私の中の社会性の根本みたいなもの、お前はいつも誰かから守られていて愛されてるけれども、人のことも考えなければならない、という気持ちです。今の世の中だったら「けっ」と許われるような、友愛とか祈りとか、そういう感情の根本にあるものです。うぜえと思うでしょう。確信犯ですから、嫌がれば嫌がるほど、私は言いますよ(笑)。
君は…に従って生きるのが嫌になる…(p032,5行目〜)
それでどうやって萌神は彼女といっしょにいたのか。
君はこの家で‥・(p033,5行目〜)
つまり、自分と、自分の唯一絶対の他者、観念的な他者とずっといたわけですよね。だから孤独にもいじめにも耐えることができる。
君が喜ぶとき、君が愛の対象物…(p033,4行目〜)
生まれたときに私は、鉗子で引っ張り出されて、目の横と頭に傷があったんですけれども、それはすごく運のいいことで、ちょっとでもずれていたら大変なことになっていたと思います。でもまあなんとかこのように出てきたわけですけれど、生まれたときには顔の半分が願れているという状態でした。まあ傷は薄れたが私は不細工に生まれてしまいました。ネットで、女性の作家でいちばん不細工なのは誰かと、よくふざけたことを言ってますけれども、だいたい三番から落ちたことがないんです。
俺はつくづく見た…(p032,16行目〜)
この美しいものに対して、
ああ美しい、愛している…(p032.16行目〜)
親が子どもをかわいいと思うときは、こうなのかもしれないです。しょせんこうやって萌神をつくれるということは、私は基本的な愛情に恵まれて育ったのかもしれません。人のどんなちょっとした好意でも、すごくよく覚えていて、集めることができたのかもしれないし、なによりそういう愛を元手にして、孤独であっても猫に愛情を注ぎ続けたときに、見返りを求めずに愛し続けても、唯一絶対の他者から愛が返ってくるような感情があって、それが宗教的感情と似ていたということなんです。
この萌神というものに、ある年から主人公は興味がなくなってしまうんです。どうしてかというと、祈ることを始めて、自分なりの宗教をやってしまうから。神棚を使って、神仏習合に目覚めて、祈るようになるんですけれども、だけどどんなことにもめげない彼女の、自分の猫が死んでしまうんですね。それもものすごく皮肉な理由で。そのときに神が信じられなくなります。キリスト教の神様は、どんなすごい試練、たとえば身内が全員死んでしまうような試練があったとしても、絶対に信仰を捨ててはならないと言っていて、大きな戦争とかホロコーストとかあっただからこそ、神を信じなきゃいけないというのがあるらしいんですけれども、日本の信仰にはフェティッシュ信仰に近いものもあって、例えば石に向っていいことありますようにと祈った後で、何か嫌なことがあるとその石をぶん投げて、別の石に祈るというようなことを時にはやります。だから、こういう人がいくら祈っても、猫が無惨な理由で死んでしまうと、神棚をぶん投げてしまうわけです。そうすると、神をぶん投げた後に、なんとか主人公を生かそうと思って、唯一絶対の他者が生えてきて語りかける。台所の床から美青年の姿で生えてくるわけですよ。なにをしゃべっているのかわからない。でも、生きててくれと思ってるらしい。そうやっておいて、彼は主人公の来歴を語ります。
というか、この小説を書いているときに、急に「お前は」という語りかけで唯一絶対の他者が私に語りかけてくるような感じになりました。それでそのままずっと自分の記憶をたどって書いていくと、実は私はものすごく暗い話を書いて、人に排除されたとか、そういうことを言ってるタイプの作家なんですけれども、でもそれでも負けなくて強いとか言ってるわりにですねえ。「おまえはこうしてこうしてこうされた」と来歴を語って書いていると、何と多くの人に愛されて、大事にされてきたか、ということがわかってきたんです。ちょっとした行為と思ってたことも、それはすごいことだったと。こんなこともあった、あんなこともあった。思いがけないような記憶がどんどん蘇ってきて、自分の持ってる愛の来歴というのが、分かるような感じがしました。そして猫に注いだ愛というのも、全部返ってくるような感じがしました。だけどその正体を感じたときに、友達よりは恋人に近いかなという感じの唯一絶対の他者が、自分の心の中にいて、私はたまたま世間の宗教にはいかなかったけれど、そういうものといっしょにすごしてきたから、
一人でいられたのかなという気がしてきたんです。その時つい、私は基本的には憎悪の人ではなくて愛情の人だと思ってしまった。
社会に対する違和感を感じるからこそ、自分の周辺のもの、自分と気の通いあうものを深く愛することができます。自分と同じようなことを考えている友達や見知らぬブロガーをすごく心配したりとか、そんなこともあるんですが、でも世界全体への違和感はやはりあって、その違和感を書いたのがこの『水晶内制度』という作品です。これはセンスオブジェンダー大賞というSFの賞をいただいているんですけれども、女性だけの国の話です。現代における性愛への違和感と内面の愛はここにもあります。
そして世間でわりと誤解されているんですが、いわゆるフェミニズムの楽園を書いた本ではありません。これを読まないでフェミニズムの楽園について書いた本だと思い込む人がいるようです。ただ単に女の人だけが住む国の物語で、男はほとんど「男性保護牧場」という遊郭のようなところに閉じ込めてあります。しかし保護どころかいじめています。若くてきれいなうちは閉じ込めておいて、後は肉体労働につかう。平均寿命は短い。いちばんすごいところは、女人国の外からロリコンを連れてきて、それを少女たちが17歳になるまで観察させて、それから死刑にするかどうかを投票で決めるということをやっています。作中この人たちは何度も大声で私たちはフェミニストじゃないと言ってるんですよね。でもこの設定だけでネトウヨ的な男の人たちは退屈して寝ちゃうか、ものすごく怒ってしまうかなんです。しかしこの男性を黙殺していく女性の姿というのは、コンピュータグラフィックみたいに、男社会で出くわすおかしなところもいちいち全部女の人に置き換えて書いてあります。男とか女とかこだわらない感じで権力志向とか徒党を組むこととか、いやなことを全部書いて、それを女だけの国に入れたときに、なんともいえないおかしなバランスが生じて、そのことで読んだ人が不安になったり、おもしろがったり、いろんなことを感じたりして、それで何かを受け取ってもらえればいいなという感じの本です。ですからここに住んでいる人たちがまず作中でこのようにアナウンスをします。
お間違えなきように私達は…(『水晶内制度』 p16大字から)
他にもこのな性たちはフェミニストの壊滅に手を貸して「はははははは、は。溜飲が下がる(テキストp17,21行目)。」と大笑いします。そんなこの国で女だけで何をしてるかというと、例えばアンドロイドの美少年を作って、美少年アンドロイドといっしょに暮らしている人がいる。あるいは、女性同士で暮らしている人がいる。この二派にわかれています。本物の同性愛者でもなければ、人形愛者でもない、表現系としてそれを選択した立派なヘテロばかりの演技集団の国という事になっています。嫌味っぽい国ですね。そして危険施設が国の根幹にある。原発のようなものでも原発じゃない。本の字を見てください。原の字が変でしょう。(編集部註:原文は造字。原という字の日の一本線が目のマークになっている。)つまり原発ということを私はこの空想の世界の中で シリアスに書いてはいけないと思いましたので字を変えたのです。だから原発のゲンの字を変えて単に電気をつくる危険施設ということにしてあります。
つまりこの国の建国者たちは白分たちの独立国家をつくるために、政府と組んで、真面目な心の美しいフェミニストの人々をだまし、多くの資金を騙りとって親切な市民運動家全員を地獄にたたき落とし、この地に女性だけの、政治的に正しくない最低のコロニーを建設いたしましたと言ってるんですよね。私たちウラミズモは男性社会への盛大なる悪意をもって馬鹿臭くかったるい、事なかれ主義の男社会ではとうてい想像もおよばぬやり方で陰険残忍執拗を極めながらあらゆることを信じられない早さで進行したのですとも言っています。
で、彼女らは最初土地を占拠します。地主たちが実力行使のため思想団体と組もうとしている時点で、旧原(原典は造字)発はすでにウラミズモ国民により占拠されます。要するに原(原典は造字)発をつくって、その利権屋なんかをとりこんで、いろんなフェミニズムに対して誤った中傷のイメージをおしつけて、そして悪のフェミニズムという仮想敵をつくりだし、対抗派閥、つまりまともなフェミニストを全滅させて、独立国家をつくったというわけです。そして男性に対する悪意でもって、ものごとをやっていく。つまりこの人たちは全然フェミニストでもなんでもないんですよね。ただ、女の人だけで男性を黙殺しようとしたいんです。男女手を携えなどと言っているより女尊男卑のほうがてっとりばやいと思っている結果主義者です。マッチョ的ですよ、むしろ。女がもし人間であろうとすればまず男を見えなくし、消費し、まったくいない存在にしてしまうことが必要と結論した人々で、美少年人形と男性保護牧場だけにして、保護牧場の男にはめちゃくちゃなダイエットをさせ、整形手術もさせます。それで後遺症が出てもしったこっちゃないと言う女性たちです。
そういうふうにして、国内フェミニズムを漬すことと、危険施設を建てさせることで、他国の利益を吸い上げるものになっています。女性同士の結婚で、外国から精子を輸入して子どもを増やしています。だけど基本的には、滅ぶことが前提だという形で生きている国であります。
美少年が好きな人と、それから女性同士で色気なく過ごしている人たち、このふたつの間にも派閥があり、対立があり、右翼のようなものもあります。それから、男性保護牧場というのは、風俗ではないと言ってるんですが、何をしてるかわからない不気味なところがあって、女性がものすごくいばってるんだけど、でも女性同士ではなかなか良い付き合いがあって、また社会においては介護に徹底した報酬が定められています。ただ、監視カメラが置かれていて、介護をさぼったり、病人を虐待したりするとぜんぶばれてしまう。そういう怖い国です。だから老後の問題等は解決されているんですが、フェミニズムではない。
今の設定だけで皆さん、すごく暗くなってしまったと思いますが、こういう国があるということを信じて、延々と細かいことを書いてくというのはものすごくおかしな効果があるわけで、もし私の読者ならずっと読んでいるうちに自分のいる国はいったいどこなんだろうとわからなくなってきたり、それ以上に結婚とか、家庭とか、そういうことの問題ではなくて、一人の人間が、尊厳を確立するためにはどうしたらいいかということを考えてしまう場合がある。かつ、一人の人間と国家が対峙したときに、国家というのはどんなに政治的に正しくしても、だれが権力をとっても、おそろしいものであるということ。あるいは価値観とは人間にとってどういうものであるのかとか、皆さんが思っているフェミニズムとは、だいぶ違った問題がずいぶんたくさん書かれています。
でも、この設定だけで怒ってしまう評論家というのがいて、それでこれがフェミニズムの本だと言い切るわけです。これだけフェミニズムじゃないと言ってるんだけれども。今の慶應の人たちだと、フェミニズムもラカンもクリステヴァも、みんな知ってると思います。すごくレベルの高い人たちがここにいると思うので、自分もしゃべるのを躊躇しますけど。
でも結局ここに来てしまいました。会って話さないと判らないと思って。で、最初の事情に戻ります。(講演録のp44の冒頭7行参照)『三田文学』という雑誌がありますね、慶應の看板雑誌だそうです。そことひどいことになっております。ことの発端は、私が書きました「だいにっほん三部作」です。『水晶内制度』は女が男をいじめてる国で、このだいにっほんという国は、ウラミズモに資金援助をしてそれを引き換えに女人国の少女たちのロリコンデータを輸出するという悪い行いをしています。だからフェミニズムでもなんでもないわけですよ。その悪い偽フェミニズムの国、偽というよりめちゃくちゃな国ですね、とにかく恨みがましい国が輸入したデータをこちらは買っているわけですよ。しかも原(原典造字)発のエネルギーも買っていて、お金は全部女人国に投入するので国力が衰えていきます。女人国には男性保護牧場があります。でロリコン国には何があるかというと火星人少女遊郭というのがあって、アニメの二次元をそっくり三次死にしたような着ぐるみを、生きた少女に着せて、これはアニメでバーチャルだから悪くないと、そういう理屈をいっぱいつけて、それをつけるときに人間に内面なんかないと言ったりして、ひどい行為をし、あとラカンとかをどんどん誤用したりして、火星人の少女をいじめているという。
私はこの世界を病的なあるいは空想的なロリコンとは少し違う形のものとして描いています。つまりネオリベラリズムとか、市場経済がすごく宛達したときに、人間の商品化の究極の形ってなんだろうと思って、子供という商品にしてはいけないものの崩品化をする、そんな悪を書きました、つまり私は空想の世界で小学生の女の子が好きになってしまって、泣きながらその女の子に一生会わないと言って、その少女の絵を描いて暮らすロリコンの人をここで悪いとは言っていないのです。そういう人たちを責めるためにこれを書いているのではありません。人間を商品化したときの究極の形がロリコンなのであって、経済と連動したロリコンとは何かという意味でネオリベラリズムとロリコンを合体させたときにロリリベラリズムというものがでてくると言ってるわけです。
こっちの国は男がいばってる国、こっちの国は女がいばってる国、両方書いたから、公平だろうと思うんですが、どっちを読んでも、笙野は男が嫌いだというレベルのそんなような読み方しかしない人がいるわけですね。その人たちの一人に、『三田文学』の新人賞を獲ってから法政大学の教員になった田中和生という評論家がいて、その方がずっとこの『だいにっほんおんたこめいわく史』を批判しているわけですが、その批判の内容がすごい。「フェミニズムとは何か」ということを途中で言いますけれど、とりあえず最近だと『だいにっぼんおんたこめいわく史』に出てくる人物なんですけれど、男は悪いやつ、女は善人、その二項対立でできているから笙野はなってないという批判をしました。その後ネットでもちろん田中和生は叩かれ尽くしました。どうしてかというと、女の悪人がこの本にはたくさん出てくるんです。20ページくらい読んだらすぐわかります。おかしなフェミニズムがあって、学問の理屈をいっぱいつけて、火星人少女を虐待する理由にしている。それから名誉少女というのがいます。「少女」というのは、このロリコンの国では反権力だと。そして反権力と権力は戦うんだとか言ってて、どうするかというと総理大臣を少女だとか言うわけですよ。もし総理大臣がおっさんでひどいロリコンだったとしても、これは少女ですと。名誉少女なんだから少女と同じように扱いなさい。そうすると総理大臣は権力を持っているんだけど、どんなことをしても、政論弾圧をしても、これは反権力的な市民運動ですということができるし、国民から税金をとってもこれは反権力運動だということができるし、なおかつ少女の入る女子トイレとかお風呂とかにも、少女だから入っていくことができるわけです。あと、少女を殴ったり変なことしたりしても、少女同士の喧嘩として許されてしまうわけです。
その一方、名誉少女には女の人もいて、おばちゃんなんだけど、ずっと少女ぶってると。何をやってるかというと、火星人少女にはつくられた少女ぶりっこみたいなことはできないのでそれを指導するわけです。竹刀をもって、親指はこうくわえろと。首はこうかしげろ、足は、片足をあげてぶりっこ立ちをしましょうと。そのままのポーズで30分いなさいとか跨う。対抗教団でみたこ教団という小さな少数派の教団があるんですけれども、そこからさらってきた少女を沼際の風が強いところにコスプレで立たせて、少女らしさがたりない、ぶりっこがたりないと言っておどしつけるわけです。そのことによってそれを学問にして出世していくと。少女演技というんですが、それを指導する悪い人たちがいて、要するに女を搾取することというのは、やろうと思えば、遊郭には昔からやり手ぱばあというのがいたわけですし、やり手ばぱあになる人たちの中に、もと遊女だった人たちもいるわけです。悪というのは複雑なものなんです。
だけど、田中和生さんは笙野頼子はフェミニズムだ、なぜかというと男が悪くて女が正しいという図式だけしか書いてないと言ったんです。これがどんなにひどいことか。田中和生さんは、外国のフェミニズムと日本のフェミニズムをいっしょくたにして、男が悪く、女が正しいという考え方だとまとめてしまい、そのことがものすごく世界的に危惧されていると主張した。その危惧の根拠として『迷走フェミニズム これでいいのか女と男』という本をあげています。エリザベット・バダンテールという人の本です。フランスの、そんな、フランスのごく一部のフェミニズムをフランス人が批判しただけで日本のフェミニズムの現状批判ができると思っている。それにフェミニズムというのはもともと、たとえばデートDVの場合、女性が男性に暴力を振るうケースがあるわけで、女性が男性にそういう被害を及ぼすことがあるということも、今はじゅうぶん想定しているんですよ。だけれども、田中さんの頭だと女がヒステリーできんきん騒いで男を悪者にするのがフェミニズムであって、そういうフェミニズムが日本に蔓延していて、その象徴が笙野頼子だというわけですよ。『三田文学』に50枚、「笙野頼子はプッシュだ」等書いたわけです。私は核も保有してませんし、テロの原因にもなってないと思うんですが。とにかくブッシュ呼ばわりされたわけですよ。しょうがないんで、反論を書くことにしたんですが、しかし反論を書いているときに何をされたかというと、加藤編集長というひとが『三田文学』の編集をしてるんですが、原稿を改ざんされました。最初に副題をとらせて、自分たちの用意した副題をつけさせた。それから元の題名を取った形で、ネットで宣伝して、広告も打ちました。その結果どうなったかというと、実は田中和生が立派な若武者で私という権力者に挑戦しているかのような印象操作をされるはめになったんです。
だけどそれよりも、ひどいのは原稿を改ざんするということですよ。私は署名で書いてるんです。25、6年間ものを書いてる人間に対して一言の相談もなしにそんなことを文芸誌がやっていいんでしょうか。週刊誌で署名記事じゃないものだって、ある程度は相談すると思います。もし題名を変えろと言われたら、私かかわりにもっとひどい題名をつけることはわかってたと思うんですよ。だってそもそもの題名自体が「徹底検証 田中怪文書の謎」というものだった。最初は「告訴がわりに」と肩につけていた。それは相談で取ってあげた。証拠残ってます!
それから、彼の批判は、ネットで全部論破されたもののやきなおしです、仲俣暁生さんという人の笙野批判の論旨とまったくそっくりで、要するにネットの人たちがすぐに叩けるようなものを、ネットが入ってこない活字でむしかえして、反論のふりをしたものに過ぎなかったんです。あげくに人のことをブッシュだとか言ったり、自分は実は笙野頼子と論争するつもりはないと言ったり50枚も書いて、表紙に人の名前も書いて「笙野頼子に尋ねる」などという題名をつけておいて、そういうあいまいな事を言うわけですよ。
その上で私の反論にまだ卑怯な手を使った。この改ざんに対して、『三田文学』ではネットに言いわけのようなものは出してるんですが、実はなんにも謝ってもない。つまりこれは改ざんではないということを延々と言いながら、それから田中和生さんは編集部で、私のゲラが見られる場所にいたということも開き直って平気で書いている。見られる場所にいたけど見てないと言っている。そんなことだれがわかるんですか。論争文において、ゲラを見せるということは卑怯なことです。言論統制や検閲の原因にもなりますし、あとだしじゃんけんができる。相手がどういう手を使っているかはやくわかることになりますから。なおかつ、相手に対して精神的な圧迫をかけることができる。もっとも田中ごときを私はなんとも思っていませんが。
しかしそんなことをしといたあげく「改ざんではない」と言張る。改ざんの意味も定義もなんにもわかっていないようです。それよりも、改ざんの定義なんか作りこむ前に、自分が伝統ある、西脇順三郎とか、遠藤周作とか、そういう立派な人たちの書いてきた雑誌を、勝手に信用の得られない場所に落とし込んでいるということを反省したらどうかと言うことです。だって、勝手に改ざんされた後ならもうどの文章も信用出来なくなるじゃないですか。なおかつ、文学というものをなんだと思っているのか。文字に対する想像力を欠いてます。加藤さんはしかも人間の精神が生み出した産物にたいする敬意を欠いています。決して私を尊敬しろとは言いません。少しは三田文を大切にしたらどうなのか。また彼は、責任をとるともなんとも言っていません。ひたすら自分は謝る理由はないけど作家に不快な思いをさせたから謝罪すると言ってるだけです。
なんだかいつもひどい目にあっています。でもどうしてこんな目にあうかというと、ひとつは売上げで文学を測るなとか、人間の内面に意味があるとか、私が常に言ってるからなんです。つまり上から観た視点、上から見て、何でも機械的に統一出来て、だれにでも分かり易く説明出来て、そして一人一人の事情や心は大事にしないけどなんか偉い人だけ特別扱いしなきゃいけないと、そういう風潮に対して私はここ25年くらい逆らい続けてるからだと思います。そういう意味で、いつも逆らっている女はヒステリー女だと、ヒステリー女はフェミニストだと、そういう50年前くらいで思考がとまっているような無知な人々から敵視され叩かれる。ここにいる人たちは、フェミニズムも、愛とセクシュアリティの講座に来るくらいだから私なんかより頭も良くて本も読んでると思いますが、だけれどもあなたがたの御存知の中には会費払ってる人もいる『三田文学』で、こんなひどいことが起こったんです。一方私には、『渋谷色浅川』という作品もある、ほとんど一冊丸ごと慶應の巽さんとか大串さんとか山口君とか、そういうゼミの人たちとの交友録、それから慶應の人たちは、遊ぶときにマスコミより半年早い店に行くというので、そういう店でするパーティに私も潜入して、そのことを書いたり、ラリィ・マキャフリィさんとの交友も慶應を通じてのところがあって、そういうわけで慶座の学生さんとは十五年くらい仲良くしてきたのにどうしてこんなことになってしまったのか。『三田文学』の表紙を見たら「笙野頼子に尋ねる 文学閉塞の現状」と書いてある。だけど文学を閉塞させているのは誰か。フェミニズムの定義も知らないで、人の本の登場人物の性別を間違えておいて、笙野の本は性別がなってないと言って批判して、ネットで叩かれたら活字のところへもってきて、素人の本が好きなブロガー達すら一目で見破れることを、この老舗の文芸誌に載せて、あげくにかばってもらうために人の題名をとらせて原稿を改ざんさせてまだ開き直っている。そういう馬鹿な人たちが閉塞させているんで、私は文学を閉塞させた覚えはありません。現代思想とか、論座とか、京大新聞で特集してもらったりしましたけれども、私には読者がいます。だけど、彼らは読めない。読めない人が専門家面をして人に言論統制をかけて、開き直って責任も取らないで何してるんだってがんがんこれからも書くわけです。
実は論座にもそのことを書きました。だけどやはり慶應大学というのは、同じ大学の中で、これを授業で使ってやるというのはさすがに私もやってはいけないと思う。構内でピラを配っていいかという問題以前に、やはり礼儀というものもあると思うので、これもいちいち朗読したりはしません。ただ25部あるので、なんとなくここに置いていきます。欲しい方は、これホッチキスで止めてあるので、拾ってって下さい。あっ少し時間があまりましたね(笑)。
『だいにっほんおんたこめいわく史』の中に、古市で芸妓をしていた浄泥という女の子がでてきます。その子のことを読みます。「愛とセクシュアリティ」と言ったときに、遊郭というのは関係あっても関係なくても、書くのがすごく怖くて、本当に声が出ない。たとえば以前遊郭のことで俳句をつくっていた女の学者さんがいて、そのことを私はものすごく怖いなと思いました。この人はこれでもしかしたら寿命が何年か縮んだんじゃないかと思いました。だけど日本を考えるときに、どうしても危険施設と遊郭というものを書かずにはいられませんでした。50歳過ぎ私は、やっとこわごわでも書き始めてしまって。
でもこうして言ってるうちにどんどん遊郭のこと音読するのがつらくなってきました。やはり他のところを読みます。すみません。
少女指導の演技をする人たちがいるので、その人たちのことを読んでみましょう。みたこ教団という教団のところに、彼女たちがやってきて、みたこ教徒たちを連行しようとするのですが、まずおんたこというのは何かというと、おたくの誤変換ではあるけれども、おたくの人たちを非難して言ってるのではありません。初期おたくの人たちというのは、経済おたくの人たちに収奪されているのではないかと私は思うくらいです,
また、田中和生さんはこの「おんたこ」を「おとこ」の含意だと言いましたが。いくらなんでもそこまで馬鹿な小説家はいないだろうと思います。「おんたこ」が「おとこ」の意味で、笙野は常に男を批判してる、というんですがそんな単純な人小説なんか書くはずないだろうと。
それでは少女演技というのがどういうものかですね。まず、少女演技指導のカマトトぱばー2人。「それも、アメノタコグルメノミコト、これが最高権力者。第一夫人である振田ごずと、やはりこのタコグルメの第一妹キャラである釜戸めずである。カマトというのはカマトトですね。ブリタというのはぶりっ子ですね。ごず、めずというのはご存知かもしれないけれど、地獄の獄卒で、頭が牛の形をした人と頭が馬の形をした人がいて、要するに鬼です。それが亡者をいじめるので、それをごずとかめずとかひらがなで書くと、めぐちゃんとかみくちゃんとかいうような感じで、 不毛に見えるんじゃないかと思ってやってみました。ごずは46歳、めずは三つ年をごまかしても34歳です。でもセーラー服を着ています。ごずは小柄で中肉、鼻先が平で、口は半開きで歯が出ている。」(『だいにっほん、おんたこめいわく史』原文p83,8行目〜p86,10行目までを説明を交えつつ音読)
では「演技」のさわりを読んでみます。お好きな方はこのポーズをやってみてください。
ほほの肉が「あ−」と言っているようにゆるんでいる。(p85,12行目〜)
これはあどけなく見せるためです。目が垂れて目尻が弛緩しており、目の玉は飛び出ているのをまた精一杯見開いている。 目をぱちくりさせるというのも少女演技では大切なことです。
すごい近眼なのに眼鏡をかけていない。セーラー服にローファーを合わせている。ルーズソックスからはみ出た…(p85,13行目〜)
まあ年相応なんですけど
そのがに股の足で腰を落とし、‥(p86,1行目〜)
この国では少女らしさとは不自然な型なんですよね。またもう一方のめずは、
また、めずの方はと言うと(p86,13行目〜)
これが女性の名誉少女です。その後に男性の名誉少女が続いていて、これが
二人の後ろで天才少女キャラや委員長キャラになって、設定小学生の胸に詰め物をし、眼鏡をかけて少女にばけている中年男たちこそが、この名誉少女団の実質支配者であるのだから。(p87,13行目〜)
男が名誉少女になるとどういうことができるか。このおんたこワールドで、地位や金があると名誉少女になれる。少女の演技指導も全く受けないで、道でズボンを下げて両手を上げ、露出等の犯罪行為をして小学生を怖がらせていても、それは罪のない少女のいたずらなのである。
名誉少女の中にもちゃんと女の人はいるわけです。女の方が女の子をいじめるのが上手だとい
うのは男性の言いぐさですが、性別に関わらず弱いものをいじめるのが好きなやつはいるわけです。 これがフェミニズムだというのはまったく当たってないわけで、その上女偉い、男悪いというふうに書いていると言う言い方はあんまりなレベルだと思います。
90年代というのは、いろんな文学がでてきたんです。今でもいい人はいろいろ出てきます。だけれども上から売れるもの、判りやすいものという一枚岩化を求める風潮があり、評論家の程度がどんどん低くなっています。売り上げや特定社員のいいなりになる程度の低い評論家をわざと使って、論破されるともっと馬鹿を連れてきて、次から次へとよくもまあ見つけてくるもんだというくらい、どうしようもないことが増えてて、その入ってくる人たちがどんどん奥の方まで入ってきて、『三田文学』なんて地味でお固くてまともなところだと思ってたんですけれど、とうとうこういうおかしなことに使われるようになってしまった。
だけど私はこの慶應大学との縁は大事にしたくって、それでなんとか分かってもらおうかと思ってここに来ています。私の書いているものは、「タイムスリップ・コンビナート」以後、わからなくなったという方たちもずいぶんいるみたいだけど、それと同時に、新しい読者が増えて、むしろネットで受容されるようになっています。今文学は危機ではあるんだけど新しい良いものが出てきていると思います。だからといって、ネオリペ側から一枚岩にされて、私がずっと反論したり、三部作書いたりしたことをなかったことにされるのもいやだし、正直、私かいなかったら、文学は困るんじゃないのと思っていますし。
まあ私は、ずっと一人で生きていても愛の中にいて安らかで平気である、生きた見本ですので、水族館でも見る気持ちでおもしろがってください。もし御興味あれば、こういう本をたまに手に取ってくださればと。
(参考文献)
・笙野頼子『萌神分魂譜』集英社、2008年。
・笙野頼子『水晶内制度』新潮社、2003年。
笙野頼子(しょうの・よりこ)Yoriko Shono
1956年三重県生まれ、立命館大学法学部卒。
1981年「極楽」で群像文学新人賞、
1991年「なにもしてない」で野間文芸新人賞、
1994年「二百回忌」で三島賞、
同年「タイムスリップ・コンビナート」で芥川賞、
2001年『幽界森娘異聞』で泉鏡花賞、
2004年『水晶内制度』でセンスオブジェンダー大賞、
2005年『金毘羅』で伊藤整賞、他著書多数。
翻訳は1995年韓国語アンソロジー『日本現代文學』に「背中の穴」。
2000年ロシア語アンソロジー「Hовая японскаяпроза』「二百回忌」。
2001年中国語『中日女作家新作大系』に「レストレス・ドリーム」、「二百回忌」、「何もしてない(部分)」。
2002年英訳アンソロジー『THE REVIEW OF CONTENPORARY FICTION』に「タイムスリップ・コンビナート」が掲載された。
※参考URL (管理人が勝手ながら追記)ここから※
田中和生氏のブログ「郷土主義!」 http://tanakasan.blog.so-net.ne.jp/
三田文学「今号表紙における笙野氏のタイトル表記について」 http://www.muse.dti.ne.jp/~mitabun/shono-title.html
※ここまで※
この合評中、玄月氏(芥川賞作家)は、本作に関し、垂れ流し、これで文芸誌にのるのだから(まあこのご意見は「主観」の相違でしょうね、酒場や長電話でもよくきくフレーズだし)と批判、高井氏(文芸家協会常務理事、野間賞受賞者)は文壇の「異物として」、「許されているという気分でいる」からこんな作品を書くと「文壇内存在として」の「笙野頼子」(上の経歴から判るように高井氏こそ文壇の頂点なのに素知らぬ顔で私という異物とやらを抑圧する発言を、まるで文壇外の人みたいな態度でしている)を批判。
田中氏は、「大ざっぱにいうと」、「これまでの作品のフェミニズム的枠組みの破綻までを書ききった」ものであり、「男尊女卑の国への」怒りを怒りのままに書いた作家が「内側から」自作の問題点に気づいた故の産物(つまリフェミニズム理論がなければ破綻するほどに書きっぱなしの無自覚なプロバガンタ失敗小説)と解釈。また「フェミニズムが人間としての本質的権利を主張すればする程」、「男性ロリコン的想像力を備給」するとフェミニズムをも批判(一部のファッションフェミならともかく全体をそう決めつけている。またウラミズモが単に女尊男卑の悪意と恨みの国であり、フェミニズムでない事は講演録p52−4参照。田中氏のフェミニズムに対する知識の偏向は講演録p55−6参照)その上で「おんたこが一番よく判らなかった」と。
(氏はその後本作に対し「フェミニズムを越えて」で男悪、女善の二項対立で書かれているという批判を加えている。また。当時「おんたこ」の意味が判らなかった田中氏はこの時─「おんたこ」とは「おとこの含意」であると解釈し、本作の女に悪役はいないという誤読をしている講演録p57参照─)。
その後現代思想2007年三月号笙野頼子特集「ネオリベラリズムを超えた想像力」、2007年文藝冬号笙野頼子特集、2008年論座6月号笙野頼子特集において本作は特集の中心的テーマとして論じられ、社会学、経済学、記号論、民俗学、ネット論またフェミニズムのコードで読みといた論考が続出した。
この合評中、玄月氏(芥川賞作家)は、本作に関し、垂れ流し、これで文芸誌にのるのだから(まあこのご意見は「主観」の相違でしょうね、酒場や長電話でもよくきくフレーズだし)と批判、高井氏(文芸家協会常務理事、野間賞受賞者)は文壇の「異物として」、「許されているという気分でいる」からこんな作品を書くと「文壇内存在として」の「笙野頼子」(上の経歴から判るように高井氏こそ文壇の頂点なのに素知らぬ顔で私という異物とやらを抑圧する発言を、まるで文壇外の人みたいな態度でしている)を批判。
田中氏は、「大ざっぱにいうと」、「これまでの作品のフェミニズム的枠組みの破綻までを書ききった」ものであり、「男尊女卑の国への」怒りを怒りのままに書いた作家が「内側から」自作の問題点に気づいた故の産物(つまリフェミニズム理論がなければ破綻するほどに書きっぱなしの無自覚なプロバガンタ失敗小説)と解釈。また「フェミニズムが人間としての本質的権利を主張すればする程」、「男性ロリコン的想像力を備給」するとフェミニズムをも批判(一部のファッションフェミならともかく全体をそう決めつけている。またウラミズモが単に女尊男卑の悪意と恨みの国であり、フェミニズムでない事は講演録p52−4参照。田中氏のフェミニズムに対する知識の偏向は講演録p55−6参照)その上で「おんたこが一番よく判らなかった」と。
(氏はその後本作に対し「フェミニズムを越えて」で男悪、女善の二項対立で書かれているという批判を加えている。また。当時「おんたこ」の意味が判らなかった田中氏はこの時─「おんたこ」とは「おとこの含意」であると解釈し、本作の女に悪役はいないという誤読をしている講演録p57参照─)。
その後現代思想2007年三月号笙野頼子特集「ネオリベラリズムを超えた想像力」、2007年文藝冬号笙野頼子特集、2008年論座6月号笙野頼子特集において本作は特集の中心的テーマとして論じられ、社会学、経済学、記号論、民俗学、ネット論またフェミニズムのコードで読みといた論考が続出した。